ブログ・ご意見番の意見

 充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。

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5840.2023年8月18日(金) アフガニスタンとイランの厳しいイスラム原理

 アフガニスタンでイスラム主義勢力タリバンが復権して、早くも2年が経った。それ以来同国では、国家の隅々まで徹底したイスラム化を進め、民主主義は国からその姿を消した。2001年のNY同時多発テロをきっかけにタリバンは、当時国際テロ組織アルガイダのビン・ラディンらを匿ったとしてアメリカ軍の攻撃を受け、政権を追われた。だが、徐々に勢力を取り戻したタリバンは、21年8月首都カブールを制圧し、アメリカ軍はアフガンからあっさり撤退してしまった。何故アメリカ軍はこのように無抵抗に撤退してしまったのだろうか。

 今政権を握ったタリバンは、国内でイスラム主義の原点に返るとしてイスラム化を徹底しているが、今日世界情勢から考えるとあまりにも他国の普遍的考えや体制とはかけ離れているように思える。とりわけ女性に対する差別や抑圧は、社会的理念や常識から考えて、今日の世界ではとても受け入れられるものではない。タリバンは独自のイスラム法の解釈に沿った国造りを進めているが、その典型として女性の教育や活動を制限することにある。最大の制約は、女性の学校教育を小学校までと規定したことであり、その他に女性は外出する際にはイスラム女性の衣装であるヒジャブを身に着けることである。化粧することも許されず、開業していた美容院はほとんど閉店させられた。

 女性に教育の機会を充分に与えず、小学校でしか学べないということは、文字の読み書きは何とか出来るが、考える力という人間にとって一番大切な思考力を養う機会を与えないということであり、社会から女性を遠ざけることである。これは国民の力を半減することになる。幼いころから女の子なりに将来の希望として、医師や看護師になりたいとか、学校の先生になりたいと考えていた彼らの希望を否応なく奪ってしまうことである。中にはこの苦悩から脱しようと国外へ逃げ出し、国外で生活している人もいる。だが、これとて誰でも出来ることではない。

 ある面では、01年からアフガンに駐留したアメリカ軍が監視した前政権が自堕落なためにタリバンに追い落された結果が、巡り巡ってこの有様となったが、それを見ていながら何ら有効な手を打たず、タリバンが再蜂起するや、アフガンの今後の発展とか、アフガンの問題点などに頓着することなくさっさと部隊を撤収したアメリカ軍の無責任ぶりも糾弾されなければなるまい。実際去る8日のアメリカ連邦議会下院の外交委員会で現地において負傷した兵士が、米軍の撤退は惨劇だったと証言しているくらいである。

 同じイスラム国の隣国イランでも同じような社会的問題が起きている。イランでは昨年9月ヒジャブの着け方が不適切だとして22歳の女性が逮捕された。ところが、逮捕後に収容所内でその女性が急死した。それが厳しい拷問と体罰によるものではないかとの噂が広がり、全国で抗議デモが起きた。こうした事件などを背景に、今イラン政府は女性が着るヒジャブを巡り新たな規制法案が審議されている。イラン政府は、新法案について「純潔とヒジャブの文化の促進を通じた家族の保護」というような都合の良い理屈を言っているようだが、アフガン同様に女性を家庭内へ閉じ込めようとしているだけだ。ヒジャブの色も黒一色系統でおよそ若い女性の好みには合いそうもない。女性を家の中に閉じ込め、外へ出る時には黒衣装を身につけさせ、国によってはほとんど顔も隠し人格まで覆い隠すような文化が、果たしてその国にとってどれほど有益なものだろうか。とてもイスラム国が、頑ななイスラム原理に拘る気持ちは理解出来ない。

2023年8月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5839.2023年8月17日(木) お盆休みに猛威を振るった台風7号

 昨日お盆は終わったが、今年は台風による天候異変で航空、鉄道など交通機関を主に大きな影響を受けた。特に、JR東海道新幹線は区間計画運休などで対応していたが、突然静岡県に豪雨が襲来し、東京発着の新幹線もかなり影響を受け、東京、名古屋、新大阪の各駅では、多くの乗客が乗車出来ず混みあっていた。今日も混乱は続いていた。

 今甲子園では夏の高校野球が真っ最中である。昨日の3回戦では千葉県代表校・専修大松戸高が茨城県代表校・土浦日大高とベスト8入りを賭けて戦ったが、専大松戸高は6点をリードしていながら6―10で逆転負けしてしまった。その一因というわけではないが、応援団が新幹線の遅れにより、甲子園の試合開始に間に合わなかったことがある。甲子園アルプス・スタンドの同校応援団席にぽっかりと大きな穴が開き、プレイボールに先立って新幹線の遅れで応援団が間に合わないとの場内アナウンスまであり、観客の同情と拍手を受けていた。こればかりは誰の責任でもなく、気の毒としか言いようがない。事程左様に今年のお盆シーズンは日本中台風に翻弄されたと言って好い。

 一方で、お盆は恒例的に夏祭りや花火のシーズンでもあり、各地で伝統的な行事が行われているが、これもご多分に漏れず、台風にかなり影響を受けたようだ。今夏は徳島の「阿波おどり」が、台風の襲来とその最中に線状降水帯が発生する警告に際し、安全上の配慮から徳島市長が主催者の実行委員会に対して中止を勧告した。だが、実行委員会は開催を強行した。動画を観てみると雨が降る中で観客も少なく踊り手は衣装もびしょ濡れになって踊っていた。流石に強行したことについては、かなりの批判が寄せられたようで4日間の最後の1日は中止となった。主催者側の催行したい気持ちもよく理解出来る。ここ数年開催したくともコロナ渦の影響で実施出来ず、漸くコロナも下火になり手ぐすね引いてその日を待っていた主催者にとっては、この程度なら大丈夫と判断した苦渋の選択だったと思う。来年こそはうっぷん晴らしにも青天下に思いっきり踊ってもらいたいものだと思う。

 さて、ハワイのマウイ島で1週間前に発生した山火事が、島のリゾートである中心都市ラハイナを中心に西部の街を焼き尽くし、多くの被災者を生んだ。現在までに死者は110人、行方不明者は1千3百人に上がっており、人的被害はさらに拡大すると見られている。消失家屋も2千7百棟に達している。バイデン大統領も過去100年以上の間の最大の災難事故であると言い、被災地に緊急支援を行い近日見舞に訪れると発表した。写真で見る限り一面焼け野原になっており、島で突風に煽られた時の火災には、恐ろしいものを感じる。住民は住むところを失い、食料は支援物資に頼りこれからどう生活を再建していくのか、多くの住民が困っている。

 マウイ島の人口は、2022年に16万5千人である中で約290万人の観光客を受け入れてきた。観光業によって生活の基盤を築いていた島の経済は、当分立ち行かないだろう。ハワイは日本との関係も深く、この火災により日本からの移住者によって1912(大正元)年に建立された「ラハイナ浄土院」も一部を残して消失した。今年7月にコロナ渦を乗り越えて4年ぶりに開催されたラハイナ浄土院の盆踊りが、目新しく記憶に残っていると原源照住職は寂し気に語った。仮に東京がこのような火災に遭ったらどうなってしまうだろう。広島と長崎の長い再興期間を経て復興したことも合わせ考えると他人事とは思えない。

2023年8月17日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5838.2023年8月16日(水) フランクリン北極探検隊失踪の謎

 去る11日は祭日「山の日」だった。今年の「山の日」は天候が山登りには適さなかったようだが、それでも多くの人々が各地で登山を楽しんだようだ。3日間の連休中に富士山へ登った人は約1万人と推定され、年々外国人登山者の数も増えているという。最近話題になるのは、富士山で「弾丸登山」と呼ばれる荒っぽい登山をする人たちで、他の登山者への迷惑にはお構いなく、ただ富士山へ登ろうとの一心で登山道で仮眠したり、休息を取る人たちである。彼らの間では山小屋に宿泊せず、一気に頂上を目指す登山者が多いという。また、他にもテレビを観てみると随分簡単な身なりで登山している登山者の姿も目に付く。彼らの服装はとても登山者とは思えず、まるで夕涼みの散歩スタイルである。こういう安易な登山スタイルは低体温症になる危険が多く、地元のガイド組合や観光協会でも一歩間違えると遭難の危険があると警告している。
 そういうやや安易な登山者に比べて、「NATIONAL GEOGRAPHIC」8月号特集記事に取り上げられたロマン溢れる「北極探検隊 失踪の謎を追う」は、真面目にテーマに取り組み写真と地図も併せて目新しい冒険ストーリーである。そもそもそのきっかけは、19世紀半ばにイギリス人ジョン・フランクリン隊長率いる探検隊が北極海で消息を絶った北西航路を、昨年「NATIONAL GEOGRAPHIC」チームが、その足跡をたどる航海に出たことにある。

 8月号は、その経緯を記録したものである。フランクリン隊長は、まだ誰も成し遂げていない北米大陸の北の氷に閉ざされた海域を抜けて太平洋に出る北西航路を切り開こうとした。これはアメリカから極東への新しい交易路として期待もされた。ところが、彼が率いた2隻の船、エレバス号とテラー号、そして乗組員128人が忽然と姿を消し、その後長い間記録等全体の詳細は分かっていない。「フランクリンの謎」と呼ばれているほどである。普通の海洋を航海するのとは異なり、北極海では氷山や氷柱が障碍となり、危険ですらある。船が氷山に囲まれその氷山が大きくなったら船はたちまち押しつぶされ破壊させられてしまう。そういう危険な北極海では夏の短い期間だけしか航行出来ない。2隻の船は1845年にイギリスを出港したが、2年目はほとんど氷に閉ざされていたという。4年目になって遂に船を放棄した。2隻の内エレバス号の残骸が2014年に放棄した島の反対側の海底で発見された。

 「NATIONAL GEOGRAPHIC」チームは、北西航路を辿って110日後にゴールであるアラスカ州ノームに着いた。彼らがどの程度当初の目的を果たせたのかは定かではないが、フランクリン隊長らと現地のイヌイットらとの交流などは想像することが出来る。とにかくスケールの大きい冒険旅行である。

 一見「弾丸登山」と変わらないと言えないこともないが、計画性や装備品、準備、アカデミック性などを考えると自ずから無謀な「弾丸登山」とはまったく異なることは歴然である。

 中々面白い特集読み物で、ロマンを感じた。

2023年8月16日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5837.2023年8月15日(火) 78回目の終戦記念日を迎える。

 今日78回目の終戦記念日を迎えた。例年通り東京九段の日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が、天皇、皇后両陛下ご臨席の下に開かれた。生憎台風7号の影響もあり、10府県の遺族が参列を見合わせた。年々参列者の高齢化が進み、出席した遺族の内75%以上が70歳以上だった。戦争を知る世代が年々少なくなっていく。どうやって戦争の恐ろしさと惨めさを後世へ伝えていくことが出来るのか、大きな関心事であり、これからも引き継がれるべき課題である。

 私自身振り返って、1945年3月に父の転勤と疎開を兼ねて千葉県勝山町(現鋸南町)へ引っ越し、4月に大量の牛乳缶を馬車で運んでいた父の会社の人に勝山国民学校へ連れて行ってもらい初等科へ入学した。晴れて国民学校1年生になった。両親ともに息子の入学式になぞ出席している余裕がなかった。まだ友だちは誰もいない。父は千葉市内へ毎日片道2時間半もかけて列車で通っていたが、最初のころは母も近所には親しい人は誰もおらず、それでも勤労奉仕には強制的に狩り出されていた。近くの館山市内に旧日本軍の施設があるせいで、わが田舎町まで米軍機の空襲が激しくなり、毎晩のように敵機を探知しようと鋸山頂上の軍の探照灯が闇夜を照らしていたのを2階の窓からじっと見ていたのをよく覚えている。昼夜を問わず空襲警報のサイレンが聞こえると同時に、母や兄弟と近くの岩山の横穴式防空壕へ逃げ込んだ。一方学校ではこんな際どいこともあった。お母さん先生に連れられて校外のお花畑へ同級生と揃って出かける途中で、米戦闘機編隊が低空飛行して接近し銃撃直前になって急遽機首を上空へ向け飛び去って行ったが、先頭の機長の目に我々のような幼い子どもたちが逃げ惑う姿が映り、哀れと思って見逃してくれたのではないかと後になって考えたことがある。

 その後社会人になって旅行業に関わることになってからも戦争に関する業務に携わることが多かった。1970年当時ビルマ(現ミヤンマー)は国の特殊な事情によりほとんど日本から戦没者慰霊団を受け入れていなかったが、ビルマ戦友会から慰霊団計画の相談を受け、直に交渉するより方法はないと思い、単身ビルマへ飛んだ。慣れないながらも現地でビルマ航空とぶっつけ本番で交渉して陸軍航空隊として初めて「加藤隼戦闘隊ビルマ慰霊団」を計画、実行した。思いがけずビルマ政府から晩餐会に招待され、それが新聞やラジオで広く報道され大いなる反響があった。それが転機となり、以後毎年ビルマをはじめとする東南アジアへ慰霊団を計画した。更にそれがきっかけとなり、当時の厚生省からも太平洋戦争戦没者遺骨収集事業を仰せつかり、十数年に亘り毎年中部太平洋諸島への遺骨収集団で、1か月間も「玉砕の島」サイパン島を中心に滞在することになった。

 偶々一昨日の朝日新聞朝刊に遺骨収集に関する記事が載っていた。それによると「海外戦没者240万人、収集された遺骨128万柱、過去に身元判明1232人」だそうである。加えて「進まぬ国の遺骨収集 遺族『それだけ高齢化進む』」とある。これに付け加えるなら、日本人の犠牲者は310万人、東京大空襲死者8万3千人、広島・長崎原爆犠牲者死没者名簿に51万人、等々戦争がもたらした惨禍は限りがない。

 私たちが毎年お世話して順調に続けられていた遺骨収集が、今では当時より遺骨収集団の規模は小さくなり、収骨数は遥かに減ったようだ。これでは、戦争の整理はいつまで経っても片が付かない。何とか以前のように遺骨収集に厚生労働省も本腰を入れて欲しいものである。

 「戦争は怖い!」「戦争は2度と冒してはならない!」とは誰しも思うことである。日本国憲法でも戦争の放棄は第9条に明確に記載されている。だが、実際には現状は、日本政府が憲法違反を冒しながら、戦争への道をひた走りなのだ。

 昨年末には「安保3文書」を閣議決定し、自衛隊に敵基地攻撃能力をもたせるように今後5年間に巨額の防衛費43兆円を決定した。再び戦火に巻き込まれるのは耐えられないので、これは好戦的な国会議員には嫌みに聞こえるかも知れないが、この先戦争ムードが高まり、そのうえ体調が最悪になった時には、今生からお別れしたいと思っている。

2023年8月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5836.2023年8月14日(月) 気骨ある外交官だった佐藤尚武元参議院議長

 このところ終戦記念日が近づいたせいか、太平洋戦争関連のドキュメント・ストーリーの放映が目につく。去る9日、NHK「昭和の選択」が「平和を手放した日~幣原喜重郎国際協調外交の誤算」と題して歴史家らのトークと映像を映していた。幣原と言えば、戦前から外交官、そして外務大臣として国内外の難局に取り組んでいた。旧日本軍の満州、中国進駐につき、欧米から批判を受けながら懐柔策を政府に提案したが、国内では彼の意向は軍部に抑えられ提案は伝えられることなく外相を辞めざるを得なかった。戦後は総理大臣として、また衆議院議長として活躍された。

 実は、幣原喜重郎衆議院議長については、佐藤尚武参議院議長の名前と一緒に小学5年生の時、初めてその名を知った。偶々昨日の朝日朝刊「日曜に想う」で曽我豪・編集委員が、「78年前の夏の異議申し立て」と題した論説の中て、その佐藤参議院議長の筋を通す誠実さ、及び気骨ある性格と戦前、戦後の良識ある言動を高く評価している。佐藤も幣原同様に外交官出身で、終戦の年にソ連駐在大使を務めていた時、ソ連が終戦直前、特にドイツの降伏後には原爆投下で疲弊していた日本へ侵略し、日本領の一部を手にいれるべく動いていたことを察知していた。その最中の1945年8月8日、佐藤はソ連外相から対日宣戦布告を受けたという。

 曽我氏が特に佐藤を評価しているのは、毅然として自らの考えを貫き、職業、立場などによこしまな気持ちを抱かなかったことである。例えば、終戦の1か月前東郷茂徳外相からソ連に和平の仲介を頼めとの指示を受けたことに対して、異議を申し立てた。和平の条件として「皇室の維持」があったからである。佐藤は、「すでに抗戦力を失いたる将兵およびわが国民が全部戦死を遂げたりとも、ために国家は救わるべくもあらず。七千万の民草枯れて上ご一人ご安泰なるをうべきや」と皇室維持の一点だけを主張する上司東郷外相に異議を唱える長文の電報を打った。政府の所信に反するのを知りつつ、敢えて反論する罪の深さを自認していながら、言わずにはいられなかったのだろう。佐藤の正義感がそれを許さなかった。

 同時期にそれぞれ衆参議長を務めた幣原、佐藤に比べると、今日の節操のない議員、私利私欲で国会に議席を置いているだけの政治家は、政治家として、また人間的にあまりにもレベルが低い。その点で今日の国会議員は気楽である。競馬の馬主として必要経費として風力発電会社社長から6千万円を収賄したり、女性議員研修旅行と称しつつパリで観光気分に浸ったり、住民の反対を無視して賭博場建設に熱中したり、こういう議員はモラル以前に議員失格、人間失格である。

 小学生の時、初めて知った衆参両院議長の名前だったが、その後もその名も覚えている2人の素晴らしい高潔な性格の政治家を改めて知り、爽快な気分である。因みに佐藤尚武の墓地は、都立谷中霊園内にあり、この夏の暑さの中で大樹の陰はないという。「洋服を着た武士」佐藤尚武は昭和46年12月18日この世を去った。享年89歳だった。

2023年8月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com