ブログ・ご意見番の意見

 充実したホームページに仕上げていこうと、毎日目を凝らしながら取り組んでおります。淡々と書き続けてきただけで、10年2月に初めて4桁の大台1000回を、そして奇しくも74歳の誕生日に当たる2012年「文化の日」に連続2000回を、15年7月31日に3000回、18年4月26日に4000回、21年1月19日に5000回を数えました。ここでは、出来るだけポジティブな意見や、気軽な独言、時には戯言や想い出を書き込んで、自分自身の気持ちを素直に表わしながら楽しく読んでいただけるよう心がけたいと思っております。意見の主張というより、感じたままを日記風に書き綴って参ります。身勝手な意見や、独断的な表現も見られると存じますが、どうぞご理解下さいますようお願い致します。皆さまの忌憚のないご意見をお寄せいただければ有難く存じます。

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5208.2021年8月15日(日) 信じられない特攻隊員9度の生還

 戦後76年の「終戦の日」を迎えた。しかし、本当に戦争は終わったのか、再び戦争が起きる心配はないのか、もしそうだとしたら「終戦の日」ではなく、「停戦の日」ではないかとの声を聞く。しばらく途絶えていた内閣閣僚の靖国神社への参拝も、昨日、今日の2日間あまり現実を真剣に考えない現、元閣僚が続々と参拝に出かけている。参拝者は決まって国のために尊い生命を捧げた戦没者に尊崇の念を捧げたと言うが、納められている戦没者の中にA級戦犯も含まれていることを知らないわけがない。その点をどう考えているのか。

 例年通り今日も日本武道館で天皇・皇后両陛下のご臨席の下に、菅首相、遺族らが参列して政府主催の全国戦没者追悼式が行われた。今年は新型コロナウィルスの感染拡大により緊急事態宣言下での開催となり、参列者はこれまでで最も少なく185人だった。4日ぶりに開催された甲子園の高校野球でも試合を一時中断して、選手、審判員、関係者らが1分間の黙祷を捧げた。

 テレビでも終戦に纏わる興味深い番組がいくつか放映された。そのひとつにテレビ朝日「ラストメッセージ ‘不死身の特攻兵’  佐々木友次伍長」と題する心の中に思い当たるドキュメントがあった。原本は高木俊朗著「陸軍特別攻撃隊」で、度々当時のビルマ(現ミヤンマー)を訪れていた1970年代に、戦時中読売新聞ビルマ特派員だった鈴木英次さんから友人が書いた本だが、面白いから読んでみたら好いと勧められ読了したドキュメントである。同書を読み終えた時、人間性を否定するこのような残酷なことが実際に行われていたのか、と衝撃を受けたドキュメントである。

 テレビでは極力事実に則って、主人公佐々木伍長が軍の規範に逆らって生き延びた人生模様をリアルに描き出していた。特別攻撃隊万朶隊員・佐々木伍長は、フィリピンでアメリカ軍への特攻のため何度も基地から離陸するが、その都度何らかの止む無きトラブルにより帰還する。一度特攻兵に指名されたら、御国のために一身を賭して敵を倒すとの決意で飛び立った筈だが、佐々木伍長は1度ならず、9度も引き返してきた。神兵として国からも地元でも名誉の戦死をしたと神に祭り上げられ、地元の新聞には慰霊に訪れる地元民の前で遺影を抱える両親の写真まで掲載された。だが、息子が生存している話を耳にした両親は、堪らず涙を堪えて早く戦死するよう息子に伝えたという悲劇である。陸軍としては伍長のような生き残り兵がいることは不名誉でもあり、もう帰ってくるな、早く死ねと言わんばかりのプレッシャーをかけ続けていたという。

 こういう特攻隊生き残りストーリーは実際にはほとんどなく、戦後除隊した伍長は故郷の北海道に戻ってからどんな気持ちで、周囲の人びとと接しただろうか。これも戦争が個人に与えた罪悪である。その佐々木伍長は5年前87歳でこの世を去ったが、長い間自らの戦争体験については、家族にもほとんど語らなかったそうだが、晩年になってこのドキュメントのようにテレビの取材にも応じるようになった。本心を隠して秘密を抱えたまま冥界へ旅立つのに、心残りと躊躇する気持ちがあったのではないかと推測出来る。佐々木伍長も哀れな戦争の犠牲者である。

2021年8月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5207.2021年8月14日(土) 甲子園また順延。戦時中の「幻の甲子園」

 いつもなら今頃は甲子園の高校野球で盛り上がっているころだが、生憎今年の夏は九州から本州を全域的に襲った豪雨のため、3日連続で全試合が順延される異例の事態となった。46年ぶりのことである。今日で6日目の筈だが、試合はまだ2日間しか行われていない。来週も降雨が続くと予想されているので、このまま更に延期されるようだと、その後予定されているプロ野球の日程とダブりかねない。

 さて、戦後76年、明日は「終戦の日」である。戦時中の全国中等学校野球大会(現全国高校野球大会)について新聞の切り抜きを紹介したい。太平洋戦争直前の1941(昭和16)年の夏の甲子園大会は、地方予選こそ行われたが、移動の制約や、戦時色の強まりで甲子園の本大会は中止となった。翌42年恒例の朝日新聞社主催ではなく、文部省が「国民精神の高揚」のためと唱して主催し、全国中等学校優勝野球大会が開催された。しかし、日本高等学校野球連盟(高野連)の記録には正式には記録されておらず、「幻の甲子園」と呼ばれている。以後1946年まで再開されなかった。

 その「幻の甲子園」で優勝したのが徳島商だった。決勝戦では京都代表・平安中(現龍谷大付属平安高)と対決して、延長11回四球により押し出しサヨナラ勝となった。その10年後私は平安高付属平安中に転入した。平安中のかつての同級生たちは、平安高3年生となった昭和31(1956)年、晴れて3度目の全国優勝を飾った。その7年前に神奈川県立湘南高が、初出場・初優勝を成し遂げた。そして昭和29年、私はその湘南高へ入学することになった。何かと甲子園とは縁が切れない。

 42年あの戦時下で支障なく開催され、日本本土のみならず、朝鮮、満州、台湾など旧植民地の代表校ら16校が出場した中等学校野球大会は、当時の開会式の写真を見る限り平時と変わらずスタンドは超満員だった。主催者が朝日新聞社から文部省に代わったからとは言え、ルールに則って盛大に行われた大会を正式な記録から取り除いて幻の大会にしたままでは、力を発揮して栄誉ある出場を勝ち取った学校や選手らにとっては諦めきれない悔しさと理不尽さが溜まるばかりだろう。

 当時台湾の台北工から出場した現在95歳の選手は往時を想い、「甲子園ちゅうのは夢の夢。行きたくて行きたくて。とにかく喜びました」と回顧している。兄も同校の投手で主将だったが、翌年卒業と同時に陸軍に入り沖縄に派遣され乗艦が爆撃されて命を落とした。今も存命の16校の部員らは、お互いに連絡を取り合い「幻の甲子園 球友の会」として集いを開いているという。実際に地方予選を行い甲子園で優勝決定戦まで行い、これほど麗しい話がある甲子園大会を最早「幻の甲子園」とは呼ばずに、正式な大会と認めてあげても良いのではないかと思う。

 野球好きが高じて甲子園と関係深い中学、高校に通った私には、いつまで経っても甲子園への思いは人一倍で、懐かしいところである。

2021年8月14日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5206.2021年8月13日(金) コロナ新規感染者が1日2万人を超えた。

 今日新型コロナウイルスの新規感染者が20,355人となり、ついに2万人の大台に乗った。東京都内の感染者は5,773人となり、過去最多記録をまたもや更新した。専門家からは非常事態と言われている。昨日感染症対策文科会の尾身会長が、東京都は今後2週間、人出を緊急事態宣言が始まる直前の50%まで減らす必要があると緊急提言をした。しかし、昨日午後3時の対前日同時刻の人出は、渋谷▲24.1%、新宿▲23.7%、銀座▲17.7%、池袋▲5.2%に留まり、とても▲50%には届かない。夜間の8時ごろ盛り場の新宿歌舞伎町で▲15.9%、渋谷センター街が▲26.2%で、これでは切望する▲50%はまだまだ遠い目標である。しかし、菅首相は今夕のぶら下がり会見で、ロックダウンについては改めて強く否定していた。

 神奈川県のコロナ感染者も増える一方で、2日県が緊急事態宣言の対象に加えられたことを受けて、ほとんどの海水浴場が閉鎖された。県内の25の海水浴場の内、藤沢市内の3つの海水浴場だけが営業されたままだった。だが、これら3つの海水浴場も16日に閉鎖されることに決まった。若いころによく鵠沼海岸で泳いだものだが、それも閉鎖され、「湘南の海」が代名詞の藤沢市としては寂しいところである。

 さて、ネットを観ていて「戦没」したオリンピック・メダリストに、慶應OBが2人もいたことを初めて知った。1936年ベルリン大会棒高跳びで西田修平選手と銀、銅メダルを分かち合った大江季雄選手については、西田選手とのエピソードが学校教科書にも紹介されるほどあまりにも有名である。大江選手は、41年フィリピン・ルソン島でアメリカ軍との戦闘中に27歳の若さで戦死した。

 今日知ったのは、32年ロスアンゼルス大会の競泳100m自由形で、金メダルを獲得した宮崎康二選手に次いで2位に入り、銀メダリストとなった慶大生河石達吾選手である。宮崎選手は19歳のゴールド・メダリストとして何かと取り上げられて知名度が高いが、河石選手はあまり知られていない。彼は終戦前に硫黄島で戦死された。享年33歳だったが、気の毒なことに出征後誕生した長男の顔を見ていない。

 ロス大会後河石の誘いもあり、宮崎と200m平泳ぎ銀メダリストの小池禮三は、慶大に進学した。因みにロス大会では、日本が競泳で獲得した5個の金メダルはアメリカと同数で、銀、銅メダルは日本より少なかった。これがアメリカ水泳界に大きなショックを与えたと言われている。それほど日本チームの敵地での活躍は目覚ましかった。或いは、この空気感が、「アメリカ、何するものぞ!」とクソ度胸に火を点け、その5年後無謀な太平洋戦争に突っ込んで行った遠因にもなったのではないだろうか。

 今日は朝から広島県に大雨特別警報が出され、九州北部から中国地方の広島県で記録的な大雨になった。午後には三次市の江の川上流が氾濫した。九州では長崎県雲仙市、熊本県天草市の降雨量が最多記録を更新し、土砂崩れなどが起きた。その他に北陸地方でも土砂災害警戒情報が発表され、各地で避難指示が発令された。当分日本列島は雨模様のようだ。東京も朝から雨が間断なく降り続いている。そういえば、今日が好い日であるわけがない。呪われる「13日・金曜日」である。

2021年8月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5205.2021年8月12日(木) コロナ感染者、連日の過去最多

 2日に慶應病院で受診した人間ドック検査の結果、若干便潜血反応が表れた。総合的に検査項目について説明してくれた医師から、便潜血の基準値としては(-)が望ましいところだが、(3+)だったので、専門の消化器内科の医師に相談するよう勧められ、今日同病院消化器内科へ相談に出かけた。消化器内科医師から一昨年にも同じ数値、症状があり、その時大腸の内視鏡検査を受けポリープを乗り除いたので、今回もそのようにした方が良いとアドバイスされ、来週改めて内視鏡検査を受けることになった。当分の間医院通いが続きそうだ。

 さて、オリンピックは終わったが、相関関係があると話題になった新型コロナウィルス感染は、その後収束へ向かうどころか、益々その勢いを増している。昨日は、新規感染者が大阪をはじめ、9府県で過去最多を記録し、全国でも過去最多の15,812人が発症した。国内の感染者数は107万1,410人となり、亡くなった人は15,348人である。そこへ今日も昨日に続き、全国の感染者は過去最多の18,890人だった。過去最多の府県は、大阪、沖縄をはじめ、20府県に上った。

 新規感染者数は、前週に比べて全国で1.33倍に増加している。今や東京を中心に全国で重症者が増え、病床数の不足から容易に入院出来ず、自宅療養者が増えたことが懸念されている。最近はインド方面で流行ったデルタ株が日本国内でも流行っているようだ。 今日開かれた東京都のモニタリング会議で、専門家から「制御不能な状態」「非常事態」「医療提供体制が機能不全」と危機感を示された。人流は減っていると菅首相は述べたが、統計を見れば、間違いなく増えている。特に、新宿、渋谷など繁華街では増えている。

 かつて菅首相は国民の4割がワクチン接種を1回終えると感染者が減少すると述べたが、すでに先月30日に国民の40.2%が1回目のワクチン接種を済ませた。ところが、現実には感染者は減少どころか、増加する一方である。デルタ株などの流行で「出口戦略」が見えなくなったが、首相は荒療治のロックダウンは日本では馴染まないと否定的に語ったが、思い切って即効性のある短期間だけでもロックダウンを実施しないとこの勢いは止まらないのではないか。街頭でのインタビューを聞いていると、それぞれに言い分があるようで、若い女性のグループは、緊急事態宣言慣れしてしまったので、気をつければ心配ないなどと無責任、無頓着なことを喋っていたが、ある中年男性は、ロックダウンどころか、戒厳令でも布かなければコロナの勢いは止まらないなどと述べていた。

 ところで猛暑にうんざりしていた数日前に台湾周辺に台風が3つも発生したと思ったら、今日は豪雨が九州、中国地方を襲い、九州は昨年に次いで何年に1度という規模の豪雨に晒されている。線状降水帯も発生し、避難する人も増えている。明日の天候は、九州地方から北海道を除く北日本まで全域に亘って降雨の予報が出ている。コロナ禍に加えて猛暑、そして豪雨にまで襲われ、今年の夏は、まさに踏んだり蹴ったりである。

2021年8月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com

5204.2021年8月11日(水) 「ローマの休日」を懐かしく鑑賞

 新型コロナウィルスによりステイホームを求められてから、夕方のウォーキング以外は極力外出を避けている。ずっと兄弟妹や友人らと会えなくなったのも寂しいが、映画を鑑賞出来なくなったのも少々厳しい。映画を観るのが特別好きというほどではないが、ドキュメンタリー作品や社会派映画を映画館で1年に1~2本は観ている。つい最近「アウシュビッツ・レポート」という2人のユダヤ人のレポートにより、12万人の生命が救われた実話を映画化した作品が公開されたことを知った。4年前にアウシュビッツ収容所を見学し、ビザを発給してユダヤ人6千人の命を救った杉原千畝が勤務したリトアニア・カウナスの領事館を訪問見学した。また杉原の長男が偶然にも兄と高校の同級生だったこともあり、何かと縁を感じていることもありアウシュビッツに強い関心を持っている。コロナ禍ではあるが、その映画を何とかして観てみたいと考えている。

 そこへ今日偶々懐かしい映画をNHK・BSで放映していた。途中からだったが、つい懐かしさのあまり最後まで見終えた。名作「ローマの休日」だった。これは、ウイリアム・ホールデンがアカデミー主演男優賞を獲った「第17捕虜収容所」と並んで、新人女優のオードリー・ヘップバーンがアカデミー主演女優賞を受賞した名作である。ローマ市内を観光する度に訪れるコロッセオ、トレビの泉、スペイン広場、真実の口などの観光名所をいくつもヘップバーンと、共演者の新聞記者グレゴリー・ペッグがスクーターで案内してくれる。懐かしく思った。

 この名画を改めて鑑賞してショックを受けたのは、あまりにも記憶がおぼろげになっていて、大分記憶違いがあったことである。覚えていないシーンが随分あった。2つの映画はいずれも1953年制作作品であるが、藤沢市内の映画館でこの映画を観たのは高校生になってからだから、もう70年近くも昔のことである。

 最も衝撃を受けたのは、映画の最後にヘップバーン演じる「王女」と記者団との挨拶の交換シーンがあり、記者の友人の写真家ラドビッチが、こっそり「王女」に封筒に入れた写真を手渡した場面は、今の今まで新聞記者が「王女」に手渡したと思っていたことだった。大きな勘違いだった。思い違いのような誤解が生まれるのは、ある面で止むを得ないかも知れない。しかし、映画の最後の決定的に重要なシーンを勘違いしていたとはちょっとショックだった。ただ、これは初めて映画を観て以来ずっとそう思い続けていたことでもあり、認知症のプレ症状とはあまり思いたくない。

 久しぶりに懐かしい名画を観て、良き思い出に浸りつつも記憶の曖昧さに、少なからずショックを受けたことも事実である。

2021年8月11日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com