16日からベトナム戦時下の「安全への逃避」でピューリッツァー賞を受賞した、戦場カメラマン・沢田教一写真展が日本橋高島屋で開かれている。
6月に小田急トラベル新社長に就任された佐々木文信新社長にお祝いの挨拶がてら出かけたが、その後日本橋へ出て何とか写真展を鑑賞することが出来た。佐々木新社長は大学の後輩でもあり、以前からよく存じ上げている。大変明るく気さくで話しやすい人なので、今後も出来るだけOBとして外から協力することをお約束したところである。
写真展にはどのくらい見学者が来られるのかと些か気になっていたところ、かなり大勢の男女客が鑑賞していた。ウィークデーということもあり、若い人の姿はあまり見られなかったが、年配の男女が多かったのは想定外だった。沢田は主にベトナムとカンボジアで活動されたが、結局1970年10月プノンペン郊外でクメール・ルージュに銃撃されて享年34歳で亡くなった。その時代にある種のノスタルジアを感じる世代の人々が見学者の主たる人たちではないかと思う。
冒頭の「安全への逃避」が撮られた時は、私自身ちょうどサイゴンを訪れたころだった。その3カ月後沢田がケサンへ向かう米軍輸送機内で兵士たちを撮った写真がある。そこにはこんなことが書いてある。「鋭い目つきがカメラをにらむ若い米兵。顔つきに余裕はない」とあるが、私が同じような気持ちになったことがある。サイゴンのタンソンニュット空港に着いた直後に、傍にいたアメリカ兵のひとりに、軽い気持ちでトイレの場所を訪ねたところ、すごく怖い目つきで睨まれ、ドキッとしたことがある。米軍兵士は興奮し殺気立っていて精神的に落ち込んで、沢田が写真でコメントしているように普通の顔ではなかった。熾烈な戦火がベトナム全土に広がり、アメリカは破れかぶれになっていたように思う。彼は親しい友人に「ベトナム戦争は米国の負けだ。写真を撮り歩いているからわかる」と言っていた。臨場感を身体に感じていたのだ。私自身初めての武者修行で感じた臨場感は、その後行動面でひとつの規範となった。
その翌年ベトナム戦争で最も激しかった戦い「テト攻勢」によって、米軍と南ベトナム軍は守勢に回るようになった。
私が戦火のベトナムを訪れてから早くも半世紀が経過した。今日は臨場感こそ伴わないが、懐かしいベトナムの想い出にしばし浸れることが出来た。いずれも臨場感のある写真を集成したアルバム「戦場カメラマン沢田教一の眼」を買い求めた。これも時々目を通すのが楽しみである。
番外であるが、沢田は三沢基地で働いていた当時11歳年長の写真屋の娘・サタさんと結婚した。沢田20歳、サタ夫人31歳だった。サタ夫人は92歳の今もご健在のようだが、サワダサタさんの旧姓は、沢田を逆にした田沢だったとは!