夏の午後のひととき、妻が訪れていた二男家族と買い物に出かけている間に突然電話のベルが鳴った。どなたからかなと耳を澄ますと、何と水落敏栄・文部科学副大臣からだった。
去る8日甲子園の高校野球開会式で、水落さんが林芳正・文部科学大臣に代わって挨拶されたのを偶々テレビで観てびっくりするとともに、懐かしさのあまり直ぐに手紙を認め、拙著「南太平洋の剛腕投手」と一緒に郵送したところだった。拙著には水落さんらとともに厚生省の戦没者遺骨収集事業に関わった当時のことを綴ったが、水落さんもこの事業がご自分の原点だと言っておられ、殊更拘りがあるようだった。私自身にとってもひとつの大きな転機となった事業である。水落さんは現在日本遺族会会長も兼ねておられるので、この原爆投下や終戦記念日を挟んだこの時期は特別忙しいと仰っていた。明日の終戦記念日記念式典に出席の後、サハリンの北緯50度線に20年以上も前に建立したサハリン地区の戦没者慰霊塔へ参拝に出かけられるという。
大変懐かしがっていただき、後日連絡するのでぜひお会いしたいとお話いただいたが、私も何年振りかでお会いすることを楽しみにしている。
さて、まったく偶然な話で驚いたが、水落さんとサハリンの話をした後の今夕のNHK特集「知られざる地上戦」と題する番組で、戦争直後のサハリンにおける厳しかった地上戦の実態を伝える番組が放映された。これを観て終戦直後のサハリン(樺太)で争われた日ソ地上戦の残酷な事実を知った。8月15日以降7日間もソ連軍と日本軍との間で戦闘が継続され、圧倒的なソ連軍の戦力に追い詰められ日本人一般市民を含む5千人もの犠牲者を出した悲惨な状況を証言していた。
どうして天皇の終戦玉音放送があったにも拘わらず、当時の樺太で終戦、武装解除という当然の処置がなされなかったのかという疑問を、生存者の証言や日ロの公式資料を基に分析していた。最大の原因は、運悪く終戦前日に樺太最大都市の豊原(現ホルムスク)で停電があり、終戦の詔勅が日本人住民に伝えられなかったことと、札幌第5方面軍が樺太第88師団にソ連軍の北海道侵略を恐れて、意図的に「樺太死守」を伝えて樺太部隊に戦斗継続と玉砕を求めた経緯があったようだ。
それより何より日本が全面降伏した直後にソ連が樺太や北方領土を侵略して、今日まで領土を占領している横暴ぶりがこの厳しい現実の背景にある。その内北方四島でも同じように日本人に乱暴した旧ソ連軍の残虐行為が焙りだされるのではないだろうか。
サハリンには、1992年に訪れ北緯50度線の旧樺太南北国境線を訪れたことがある。その時豊原を訪れ小高い丘から日本人避難民が船出したとされる港へ降りて行ったことがある。
あまりサハリンについてご存じの人はおられないが、豊原の日本人電話交換手が「ソ連兵がやって来ました。皆さん、さようなら」と涙ながらに電話を切った悲劇はよく伝えられている。
水落さんも慰霊碑建立のため、何度も豊原へ出かけたと言っておられた。今度お会いしたらサハリンの話もしてみたい。