82.2007年8月4日(土) 小田実さんを見送り、デモに参加する。

 小田実さん、あなたは本当に素晴しい人です。どれだけあなたの言動によって私たちは力づけられたか。男がほれぼれするような文を書いて、あなたの方へ向かわせ、そして率先垂範行動で誰をも脱帽させたのです。もうあなたの肉声を聞けないと思うと辛く寂しい。

 暑い日差しの中、青山斎場で行われた小田実さんの告別式へ参列した。覚悟していた小田実の死ではあったが、40余年に亘って小田実から多くの世界的常識を学ばされ、国際社会の中で多面的に考えることを教えられ、自ら行動することを身体で掴まされ、いい意味で大きな影響を受けた。私たち安保世代にとって鋭い嗅覚を持ったリーダーであった。特に、己を捨て自ら先頭に立って一般市民のために、国家のために率先行動する姿勢には、崇高さを感じて心を打たれたものである。私が曲がりなりにもサラリーマン時代に大勢の部下を率先してリードして来られたのは、そういう小田の行動力にぐんぐん引っ張られ、見習ってきたからだと思っている。私の拙い文にも小田の影響が見られると親しい友は言う。今日自由に著述活動出来るのも、断然小田実の存在が大きい。

 今日は心から感謝の気持ちを伝えたい、そして最後のお別れを言おうと思い青山斎場へやって来た。

 午後1時に無宗教の告別式開式となり、われわれは外の待合所で、黙祷の後弔辞と弔電を拝聴することになった。葬儀委員長・哲学者鶴見俊輔氏が、黒船来航以来外国文化との風穴を開けたのは、ジョン万次郎と小田実だと挨拶された。偶々ジョン万次郎は妻の遠戚に当る。評論家・加藤周一氏が、小田は稀代の呼びかけ人で、有言実行の人、文学者の活動の型を決め完成させた人だと締めくくった。ドナルド・キーン氏は小田からもらった著書「玉砕」をかなり経ってから英語訳にしたら、世界中に翻訳され、小田の名が国際的に有名になったと話された。4月にお会いした元ベ平連事務局長・吉川勇一氏が小田の代わりはいない、細事ではぶつかっても大筋ではぶれない人だったと故人を偲んだ。国内外から多くの弔電が寄せられたが、中でも金大中・元韓国大統領は、自分は死刑を宣告され収監されたにも関わらず、解放のために韓国へ来て戦ってくれた。そのおかげで自分はフリーとなって、大統領にまでなれたと恩人に感謝し、言動一致の知識人の標本と褒め、阪神淡路大震災時の市民立法のための闘い、九条の会の活動を絶賛され、偉大な故人の死を惜しんだ。

 参列者が献花を終え、小田さんのご遺体をお見送りする時、参列者の間から自然に拍手が湧いてきた。葬儀で拍手が起こることなど前代未聞ではないかと思うが、これも小田さんに対する感謝と愛惜の気持ちが自然の行為として表れたのではないだろうか。献花の折り私も心から哀悼の気持ちを伝えたつもりである。

 この後、小田さんの死を悼み、反戦の遺志を継いでいきましょうという気持からデモ行進が計画された。青山斎場から青山一丁目まで警察官に先導され、ほぼ40年ぶりにデモに参加した。やはり60年安保闘争や、かつてのベトナム反戦運動の際のデモを思い起こし、感慨無量の昂揚感があった。かなり長い行列だったが、蛮声を張り上げシュプレヒコールを繰り返した。「戦争を止めろ!」「9条は失くさないぞ!」、そして、ジョーン・バエズが唄った、懐かしい‘We Shall Overcome! ’を口ずさみながら整然と行進した。たちまちの内に「若き血」が甦ってきた。先頭の大段幕の後には高齢の鶴見俊輔氏、そして吉岡忍氏らが従った。小中陽太郎さんも一緒だった。ローマで小田夫妻にご馳走になったと話していた。

 小田実は逝ったが、彼の残した理想と業績は永遠に消されることはないだろう。

 さようなら、小田実さ~ん。ありがとう、小田さ~ん。

 玄順恵夫人からいただいた御会葬御礼の封書には、「人生の同行者」として夫・小田実と歩んだ魂の旅について綴られていた。そして、もう一枚の絵葉書には、今年4月にトルコで撮られた小田実の笑顔が収まっていた。そこには小田の言葉が添えられていた。

 

 七五年、人生一巡、

 みなさん方とともに生きたこと、

 生きられたことを、

 幸いに思います。

 では、お互い、奇妙な言い方かも知れませんが、

 生きているかぎり、お元気で。

                     小田 実

2007年8月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com