90.2007年8月12日(日) 慶應のエースだった2人の死

 今朝の新聞で往年の慶應のエース、平古場昭二氏の寂しい死を知った。79歳だった。戦後再開された夏の甲子園中等学校野球大会優勝校・浪商のエースとして、準決勝の東京高師付中戦で19奪三振記録を作り、その記録は今も破られていない。東京六大学では東大戦でノーヒットノーランを演じ、慶大卒業後はオール鐘紡で活躍した。当時私自身草野球に夢中になっていたころだが、神宮球場で平古場投手が活躍した印象があまり強くなく、慶大ではむしろ2番手の河合投手とか、3番手の山本治投手の活躍の方が記憶に残っている。

 野球界を離れてゴルフ場の支配人を勤めた後に、小豆島でひとり住まいをしていたが、ガスメーター検針のため自宅を訪れた検針員が死後数日の遺体を発見したという。甲子園の高校野球が熱戦を繰り広げている最中、あまりにも寂しい訃報に接してお気の毒でたまらない。今ならすぐにもプロ野球界からドラフトされたであろう逸材だったが、前半生において華々しく脚光を浴びた割に、後半生では恵まれない生活を送っていたように思われていかにも切ない。家族がすぐ分らないせいか、喪主、葬儀等は未定とある。何とも虚しい気がしてならない。

 数日前にはもうひとり慶應のエースだった高橋栄一郎氏が亡くなられた。山形県新庄市の現職市長で、5期目だった。高校生のころ先輩だった佐々木信也、衆樹資宏選手が活躍する早慶戦を観戦に行った時、慶大2番手投手として登板したのが高橋投手だった。球は滅法速いが、コントロールがままならず自滅するのが欠点と言われ、卒業後にニッポンビールから巨人へ、そして南海へ移り、漸くひと花咲かせてオールスターにも出場した。

 高橋氏が再びスポットライトを浴びたのは、父親の地盤を継いで新庄市長に当選した時だった。その後地方政界で活躍し、20年間に亘って地方自治のために精勤されていたが、病魔に冒され帰らぬ人となった。71歳だった。

 最近縁のある人、ない人を問わず、僭越であるが故人の人生を考えることが多い。やり残したことはなかっただろうか。自分の人生に悔いはなかっただろうか。もう一度同じ人生が可能だとしたら、果たしてそれを選択されるだろうか。ありきたりだが、いま目前に自分が精一杯集中出来る目標があるということが、後々まで後悔しない基本であるように思える。

 毎日を精一杯ポジティブに生き抜こうと改めて心に期す。

2007年8月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com