103.2007年8月25日(土) 「私は貝になりたい」

 昨晩、終戦月のTV番組の定番といってもいい、日本のBC級戦犯を取り扱ったドラマ、「私は貝になりたい」を昨晩観た。2時間半の長編である。TV局も相当力を入れているとみえ、前日1時間の特集を組み、番組内容、撮影ロケ、インタビューと解説があった。その解説者は小松隆二東北公益文科大学長で、小松学長は足尾銅山公害事件を告発した田中正造翁研究の専門家である。しかし、寡聞にして番組の主役・加藤哲太郎の父である、思想家・加藤一夫の研究家でもあることは存じ上げなかった。「加藤哲太郎の手記は奥底から戦争犯罪への抗議の手記」であると解説され、「日本におけるトルストイの普及に最大の貢献をした」「坪田譲治らがトルストイへ傾斜する契機となった」「トルストイの農本主義を実践された」と父・加藤一夫を紹介された。

 小松学長には、学生時代にサブゼミで熱意溢れるご指導をいただいた関係もあり、いまでもご厚誼をいただき、ゼミ仲間とともにしばしばお会いしている。来月2日に銀座でお会いするのも楽しみである。

 いまから50年ばかり前にフランキー堺主演「私は貝になりたい」が、評判になった。そのイメージが強烈な残像としてあり、私は主役が当然絞首刑に処せられると思っていたが、それはフィクションで、実は実在の人物、加藤哲太郎なる人物がいて、彼は自由の身になったという。このドラマは今回初めて彼の獄中手記を下敷きにシナリオが書かれたということを知った。加藤はわれわれ大学経済学部の先輩で、戦後新潟俘虜収容所所長時代の部下の罪を被り、国内を逃走しながら、遂に捕われ、絞首刑の判決を受け、いつ断罪かと怯える中で悶々とした拘置所生活を送る。

 それを救ったのが、意外なパフォーマンスであった。そして、存命の妹・不二子の献身的な愛情と行動であった。そのパフォーマンスとは、ひとつは、父がトルストイを研究し、トルストイ書を翻訳した関係で、トルストイの娘、アレキサンドリア・トルスタヤ女史が減刑嘆願書を書いてくれたこと、もうひとつは、不二子の突撃的なマッカーサー占領軍司令官への直訴である。これが、減刑、釈放へつながり、晴れて自由の身になった加藤は、戦争の無意味さを訴えながら、執筆活動に精勤した。

 「戦争で罪を犯してあとは知らん顔

  罪を犯したと思えばこそ知らん顔をせざるをえなくなるのだ。

  罪は戦争にあるのではなく、戦争に参加した人にある。

  自分が戦争であんなことをしたのは、仕方がなかったというより以上には考えない、あるいは考えようと欲しない人たちは

  またいつの日か

  同じ過失をくりかえすに相違ない」

 加藤哲太郎は、長い拘置所生活で身体がぼろぼろになり、入退院を繰り返しながら昭和51年食道がんのため、59歳でこの世を去った。

 感激的なドラマである。偉大な先輩を持ったことを嬉しく誇りに思う。ドラマはそれなりに骨太で中々見ごたえのあるものだった。主役加藤を演じた中村獅堂、妹役の優香、妻の飯島直子らはそれぞれに熱演だった。久しぶりに社会派番組の力作を観て、やや疲れを憶えたほどである。

 難点を言うなら、時代背景から考えて男はみんな坊主頭でないと臨場感が出ない。戦時中の幼少期の印象からしても、長髪の大人をほとんど覚えていない。戦後のドサクサ時代を多少知っているわれわれの世代としては、長髪頭の男というのは、あの時代ほとんどいなかったように思う。それに、加藤の手記が達筆すぎる。死刑を前にしてあんなに綺麗で上手な字が書けるのか。実際画面に映された直筆はもっと崩れた文字である。この辺は少し時代考証とか、リアリティをもっと研究した方がよいのではないかと、つい余計なことを考えた。

 なお、今朝の日経日曜版の瀬戸内寂聴の連載もの「奇縁まんだら」に、荒畑寒村についていつもながらの面白いエピソードが書かれていたが、サブゼミで当時小松チューターから学習したのは、「寒村自伝」の輪読だった。当時、寒村の骨っぽい生き方に共感したものだった。寂聴さんが寒村に会ったのは、「プラハの春」の1968年、寒村が80歳の時だった。

 寂聴さんの「いま一番望んでいることは何ですか?」との質問に対して、寒村は「もう一日も早く死にたいですよ。ソ連はチェコに侵攻する。中国はあんなふうだし、日本の社会党ときたらあのざまだし、一体自分が生涯かけてやってきたことは何になったのかと、絶望的です。人間というやつはどうも、しょうのないもんですね。この世はもうたくさんだ」という回答でした。

 振り返れば、まさにこの年この事件で私もチェコへの留学を諦めた。

2007年8月25日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com