139.2007年9月30日(日) 沖縄の「集団自決強制」を教科書から削除

 昨日、戦争末期の沖縄戦における「集団自決強制」に関する削除について、歴史教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民大会が宜野湾市で開かれた。独自に集会を開いた先島諸島の自治体を除く、全36市町村の首長が参加した。主催者の予想を遥かに超える11万人もの県民が参加した。同時開催された、宮古、石垣の郡民大会にも6千人が参加したという。

 ことの始まりは、高校日本史の教科書において、沖縄戦で住民の集団自決に関する記述で、文部科学省が「日本軍に強制された」の表現に修正意見をつけ、今年3月にその記述を削除していたことが明らかになったことにある。文科省の言い分の根拠は、ひとつは、「軍の命令があった」とする意見と否定する資料がある。もうひとつは、自決を命じた元軍人と遺族が否定したというものである。

 これまでに、自決を命じた元軍人や、集団自決の現場にいた多くの人が、すでに集団自決の悲惨な事実を証言している。それに当時の戦況下ではよほど強制的な命令でもなければ、これほど残酷な自決などは有り得なかったとの現実味を帯びた声がいくらもある。客観的な状況からしても、有り得たとする方が自然であろう。また、事実としても命令による集団自決自体は現実に起きた。例えば、昭和20年3月下旬から4月にかけて、大集団自決と称せられる事件として、渡嘉敷島(300人以上)、座間味島(約130人)、伊江島(100人以上)、読谷村(約80人)がある。多くの人々が寄り添う集団には、強いリーダーがいた筈であり、そのリーダーが軍人、またはその命令履行者であったことは明らかである。それを一件もなかったかのような表現にして歴史を改ざんしようというのか。これこそ、事実を隠蔽し、歪曲することになり、後世に汚点を残しはしないだろうか。

 なぜ文科省は、敢えて強い反対の声があるのを承知のうえで、「軍の命令による集団自決は有り得なかった」という表現に拘るのか。文部官僚には、戦争や戦闘現場の経験者はいない。ましてや、遠く離れた沖縄戦の悲惨な場面を体感として知っている者は皆無である。一方戦場となった沖縄の人々には、家族を亡くし、戦闘場面を目にした人たちも大勢いる。忘れたくても忘れられない残像なのである。ひとつは、ここに文部官僚と御用学者、そして戦争体験者である沖縄人との間に、前者の仕事上恣意的に出される結論と後者の本音及び真実の間に横たわる決定的な温度差がある。

 昨日会場には、予想の2倍以上の11万人以上の人々がほとんど全島からやって来た。これはもう完全に沖縄の、否国民の世論である。案の定、執筆者の中からも記述訂正の声が挙がってきた。

 一般的に世の中が安定してくると、右傾化の流れになる。いまわが国が安定しているとは、必ずしも思えないが、それでも周辺諸外国を見回してみればいい方だ。右傾化を志向するのが時の流れなら、それも止むを得ない。しかし、事実を隠蔽することは、国が率先してやってもらっては困る。もう散々国は国民を騙してきたのだから。

 さて、ビルマは好ましからざる方向で、連日のデモ騒ぎが収束しつつある。新聞の見出しでは、「軍政、デモ制圧宣言」「デモ、散発的に」「民主化機運、また封殺―軍事政権揺るがず」「ミャンマー市民沈黙」と書かれ、またもや軍事政権側の勝利という結果に終わりそうで残念だ。民主化はまた、遠のいた。その最大の理由は、ビルマ人の温和な性格から推して、騒ぎを起こすような気持ちなんか元々なかったからである。止むに止まれず立ち上がったが、厳しい弾圧で死傷者が出るとこれ以上の被害者を出したくないというビルマ人らしい温和な気質が災いして、思い切って壁を乗り越えられない。そのうえ、武器は一切持たず、武力ではとても政権に対抗出来ない。ともかくこれで、また軍政による圧制、軍上層部の贅沢、そして市民の貧窮は続き、当分先の展望は開けないだろう。ビルマ国民に同情の念を禁じえないし、ビルキチの私にとっても辛い。

2007年9月30日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com