151.2007年10月12日(金) 青木昌彦氏の清水丈夫・元全学連書記長への評価

 今朝の日経「私の履歴書」を読んでいて、やっと分った。筆者の青木昌彦氏が60年安保当時の全学連組織内で、当時の委員長唐牛健太郎について詳しく書き、今日の記事でも仲間の西部邁についても触れていながら、先鋭的で全学連の実質的なリーダーであり、理論闘争をリードしていた書記長の清水丈夫さんについてあまり詳しく書いていない理由が何となく理解できた。多分清水さんとは相性がよくなかったと思う。北大生だった唐牛は委員長としての指導力や、理論構築などより、むしろアジテーターとして服装などの派手な一面ばかりが目立ち、当時のマスコミに取り上げられ、全学生からさほど信頼されているようには見えなかった。青木氏は唐牛と付き合っていたことを得意になって書いている。行動をともにした西部は、最後まで社会主義革命を信奉する気はなく、まもなく転向して、あろうことか、いまや自民党の手先となり右翼の急先鋒となっている男である。

 一方で、清水さんは純粋に社会主義を突き詰めて、安易に妥協することなく最も厳しい刑期を終えた末に、多分収監された最後のひとりとして出獄したと思う。その清水書記長が、戦線の建て直しを提案したとき、青木氏を含め主力はみな脱落していった。この辺りに何があったかは分らないが、大衆運動に対する見解の相違や底辺の労働者を観る目が根本的に違うことが2人の間にあったようだし、青木氏らが清水さんをあまり好意的に見ていないことが随所に感じられる。あの時代に安保闘争からベトナム反戦、沖縄返還闘争を含めて、全体の学生運動において、節目に臨んで学生を鼓舞し、力強く運動を引っ張っていったのは、ほかならぬ清水さんと、故今井澄氏(東大医学部学生、諏訪中央病院医師、後に社会党参議院議員)の2人だったと思っている。

 本来なら清水さんと青木氏は、青木氏が受験に失敗(健康診断のせいであるが)さえしなければ、湘南高校からずっと同級生となる筈だった。その青木氏は比較的恵まれた家庭に育ち、清水さんは農家に生まれ育った。青木氏の深層には、逞しく指導力のあった清水さんに対する妙なライバル意識があったかも知れない。安保闘争以後の2人の人生は、両極端に乖離していった。成長過程における2人の生活環境の相違も影響していたようだ。青木氏には、成功した者の自慢話として、かつてともに闘った仲間について語るに際して、その仲間が最後まで意志を貫いて、結果的にいまも社会の表に出てこない生活を送っているだけに、得意然として自身の脛に持つ傷を、勲章としてひけらかすのは少々控えてもらいたいものである。

 青木氏の全学連における行動は、もちろん評価されるべきであるが、青木氏のひとりよがりで自己中心的な紹介の仕方は公平ではなく、また的を射た説明にもなっていないような気がする。

2007年10月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com