6509.2025年3月9日(日) 東京大空襲記念日を前に米軍機襲来を想う。

 米軍機による東京大空襲から明日で80年になる。80年も経過すると最早体験者を除いては、臨場感としてその恐怖を肌に感じている人は大分少ないと思う。長引いた戦争にアメリカ軍も、早くケリをつけたいとおもったのであろう無差別攻撃を行うようになった。視界の良い昼間に軍事基地や軍需工場などを狙う爆撃から一歩進め、夜間にも民間人が住む市街地を無差別に標的とするようになった。人口密集の木造住宅地域の下町へアメリカ軍は1,700㌧の焼夷弾を投下した。被災者は100万人、焼失家屋は約27万戸、死者は約10万人と推定されている。

 今日の朝日朝刊「天声人語」記者当時の情景を想像しつついくつかの実話を取り上げている。「今でも覚えているのは『逃げている時に機上の米兵と目が合った』という話だ。~浅草の男性は東京大空襲の日、屋根すれすれに跳ぶB29の『アメリカ兵の顔見えた』という。『現代民話考 銃後』には、似たような体験が記録されているという。『焼夷弾で全身に大やけどを負い、家族7人を失った』、また機銃掃射から必死に逃げ回ったという女性が見た光景も記されている。電柱の陰で足を止めた時、低空飛行する戦闘機に『若い米兵の笑い顔と投げキッスが見えました』」そうである。

 実は、同じように戦闘機編隊に狙われたような体験は終戦直前に私にもあった。東京大空襲の後に、房州の勝山町(現鋸南町)に引っ越して翌4月に勝山国民学校初等科1年生として通学したが、入学早々にお母さん先生に連れられて同級生たちと校外を散歩していた時、突然米空軍戦闘機編隊が低空飛行しながら我々の方へ向かって接近してきた。先生は大きな声で「皆さん!伏せなさい!」と、興奮しながら大きなジェスチャーで両手を上下に振って、地面に伏せるように叫んだ。生徒たちはそのまま腹ばいになって戦闘機編隊の通過をやり過ごした。その時、先頭機の隊長の横顔が見えたような気がした。突然隊長機が機首をもたげて上空へ向け角度を上げ、他の戦闘機もそれに続いて高く遠くへ飛び去って行った。恐らく隊長にも子どもがいて、我々の逃げ惑う姿を見て自分の子どもを想い出したに違いない。幸い我々は銃撃されることはなかった。生徒たちは皆怖いと思ったに違いないが、それ以上に引率していた先生は、それこそ腰を抜かさんばかりに驚き、そしてホッとしたことだろう。

 あの戦争中は、薄気味悪い思い出が他にもある。勝山町の自宅の2階窓から東京方面や鋸山方面を眺めていると、夜空が真っ赤に染まったり、鋸山の探照灯が米軍機を探してぐるぐる回っているのが毎夜見られ、時折その後に警戒警報のサイレンが鳴るということがよくあった。

 後年になって戦前派私は、厚生省主管の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業に関わるようになった。また、航空隊の戦友会慰霊団に度々お共するようになってから、戦後の戦争の地へ飛び込んでご遺族や戦友の方々から話を聞いて、怖い体験をした自分自身の生々しい記憶としてあの恐ろしかった臨場感を想い出すことがしばしばある。本当に戦争の現場は恐ろしいものだ。戦後派ばかりの国会議員たちには、戦争の怖さは分からないだろう。

2025年3月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com