今年は昭和100年に当たる。そして昭和20(1945)年に太平洋戦争が終ってから戦後80年となる。序でに言うなら、あの反戦運動に関わっていたベトナム戦争終戦からも50年、ちょうど半世紀になる。その終戦の前年から80年前の今ごろ3月にかけて、米軍機による日本本土への空襲は激しくなった。特に3月10日の東京大空襲は、罹災者が100万人を超え、死者は10万人と言われ「東京大焼殺」と呼ばれたくらい大規模なものだった。
偶々今日の朝日朝刊「天声人語」の書き出しにこんなユーモラスなことが書かれていた。「小学校へあがる直前に引っ越した。♪一ねんせいに なったら 一ねんせいに なったら ~~~ ともだち ひゃくにん できるかな♪ 学校ってどんなところだろう。うまくやっていけるかな」と天声人語氏の思い出話である。私と同じように入学式直前に引っ越しをしたらしい。私の場合、小学校入学はちょうど80年前の終戦の年だった。空襲警報が発令された激しい戦時下の3月に湘南鵠沼の地から、千葉県の勝山町(現鋸南町)へ引っ越し、翌4月に当時の勝山国民学校初等科1年生になった。あまり違和感は感じなかったが、当時の土地柄や隣組の雰囲気もあって都会からやってきた我々家族に対して、近所の人たちが冷めた視線を送って、特に母は勤労奉仕に狩り出されて冷淡な付き合いをされたような印象を受けたものだ。実際にはそんなことはなかったと母は言っていたが、子ども心に周囲の空気や見方をそんな風に受け止めていた。引っ越し直後は、まだ友だちも出来ずにいたが、学校に入ると直ぐに近所の子どもたちと親しくなり、坊主頭に下駄履きで通学はいつも友だちと一緒だった。あれから4か月後に日本は敗戦を迎えたのである。最も親しかった近所の友だちの金田くんはご両親が朝鮮人で、夏休みの間にご両親の母国朝鮮へ帰って行った。戦争は終わったとは言え、仲が良かった友だちが突然いなくなって寂しかったことを今でもよく覚えている。
それにしても「人間は生きる(戦う)ために戦う(生きる)動物であり、人類史は戦いの歴史である」と言われるが、どうしてそうなるのだろう。どうして戦争は止まないのだろう。戦争直後は、皆申し合わせたようにもう2度と戦争はしないと誓っても年月が経ち戦争の印象が薄らいでくると、戦争を知らない世代が国家の権限を握り、戦争によって物事を解決しようとするからである。
昨晩NHK「映像の世紀‐バタフライエフェクト」で「死の大地独ソ戦」と題して、1941年に始まったドイツとソ連によるスターリングラード攻防戦について伝えていたが、2人の独裁者、ヒトラーとスターリンによる強硬な戦略により多くの無駄な犠牲者を生んだ。第2次世界大戦では、ドイツで7百万人が、ソ連では2千7百万人が犠牲になったという。今あの呪わしい第2次世界大戦から80年以上が経ち、戦争を現場で恐ろしいと感じた人は、政治の世界からすべて消えてしまった。そして、プーチン、習近平、金正恩、トランプのような戦争を知らない世代の独裁政治家が世界の政治を動かしている。第3次世界大戦が刻一刻近づいているような気がしてならない。
日本も他人事と知らん顔しているわけには行かない。防衛費は年々増額され、自衛隊は敵基地攻撃能力などを備えるようになり、日本時間の今日国連本部で始まった核兵器のない世界を目指す「核兵器禁止条約締約国会議」に唯一の被爆国でありながら、オブザーバーすら派遣しない日本政府の姿勢は、アメリカへのご機嫌取りというより核兵器所有を認めていることであり、戦争へ一歩一歩突き進んでいると言っても好い。
その一方でこの時期に戦争にブレーキをかける国際司法裁判所(ICJ)所長に日本人岩沢雄司氏がICJ裁判官から選任された。すでに国際刑事裁判所(ICC)所長には、同じく日本人の赤根智子所長が、プーチン大統領に対して戦争犯罪に関わったとして逮捕状を出している。こうした日本人らの戦争を抑止しようとする活動に合わせて、石破首相ら国会議員らも、もっと真剣に戦争というものを直視して欲しいと思う。