漸くお盆休みも終わった。相変わらずの猛暑にうんざりであるが、立秋を過ぎたことでもあり、ひたすら涼しい秋の訪れを待っているところである。
終戦から79年が経過した。今年は例年より太平洋戦争に関する報道が多かったように思っている。特にNHKテレビでは、終戦記念日を過ぎても連日のように、開戦の原因や敗戦に至る経緯をドキュメンタリー編集にして放映したので、つい関心をそそられ、いくつかの番組を考えながら鑑賞した。中でも昨夜放映された「“最後の1人を殺すまで”~サイパン戦 発掘・米軍録音記録~」は、米軍の映像を基にして編集されたもので、玉砕のサイパン島は何度も訪れて知っているだけに、最後まで目が離せなかった。
サイパン島へは、旧厚生省による「太平洋戦争戦没者遺骨収集団」に1970年代から20余年間同行して、毎年1か月近くサイパンに滞在して団長だった厚生省課長の小間使いのようなことをしていたから、特別印象深く感じた。画像には、昔サイパンの繁華街だったガラパンの風景も観られ、特に懐かしく感じた。
実は、小学生のころ、母が親しかった近所のおばさんのご主人がサイパン玉砕で亡くなったと聞いて、サイパンという島が頭の中にこびりついていた。
米軍第4海兵師団25連隊が、サイパン島へ攻撃を仕掛けたのは、昭和19年6月15日だった。この最初の米軍上陸戦で、日本兵4万8千人のうち、2万5千人近くが戦死した。その他に現地人のチャモロ族5千人が亡くなった。6月27日には、南部アスリート飛行場周辺へ陸軍独立歩兵第317大隊120人の特攻的日本兵が「バンザイ攻撃」を仕掛け、指揮した佐々木巳代太大尉は、「天皇のため、お国のため、最後の総攻撃だ!生きて帰ったらダメだ!大声を上げて突っ込め!」と激を飛ばした。これには、米兵もびっくりして日本人は狂信的で、文明的なことは通用しないと驚いたようだ。日本軍高官の佐藤賢了・軍務局長は、「1人たりとも生きてはいけない。女子供も玉砕してもらいたい」と全員玉砕を命じた。7月7日、日本兵をサイパン島北部のマッピ岬へ追い詰めた米軍は、最後の総攻撃を敢行し、日本兵3千人が戦死、自決して玉砕した。さしものサイパン攻撃も終焉となった。このサイパン玉砕戦の死者の数は、日本兵4万1千人、日本人住民1万人、先住民1千人という惨劇だったが、米兵は3千人だった。最後には、米軍も「最後の1人を殺すまで戦い続ける」と言っていたが、7月9日米軍はサイパン占領を宣言した。こうして悲惨な戦闘は終結した。
この戦闘に参加した元日本兵、及び米軍兵もあまりの惨状に言葉がなく、インタビューされて涙を流しているばかりだった。戦争の惨さを徹底的に追求し、その悲惨さをアピールしていた。
遺骨収集では、広島、長崎へ原爆を投下したB-29 爆撃機が飛び立った飛行場のあるテニアン島から、そこで収骨された遺骨を積み、遺骨とともに上陸用舟艇でサイパンへ帰って来たこともあった。収骨事業の最後に、北マリアナ諸島から広く収骨されたお骨を荼毘に臥す焼骨式がサイパンで行われたが、立ち上る煙を見て、遺族の方々が涙を流しておられた悲しい姿が強く印象に残っている。
終戦記念日が近づくと毎年決まって戦友やご遺族の方々とご一緒した戦跡慰霊団の記憶も蘇って来る。何度でも繰り返すが、どんなことがあっても戦争は誰にとっても悲しい事実と記録の集合体で、それ故に絶対にやってはいけない、この世の地獄である。戦争を知らない国会議員には、そういう当然のことが分かっているだろうか。