3年8か月に亘る太平洋戦争が終わって79年、今日は「終戦記念日」である。全国各地で戦没者追悼祈念式典が行われたが、東京では日本武道館において正午から政府主催の「全国戦没者追悼式」が、天皇・皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、岸田首相、衆参両院議長、最高裁長官、国会議員らに、ご遺族、日本遺族会関係者らが出席の下に執り行われた。
終戦は国民学校(現小学校)1年生の夏休み中のことだった。父から「戦争は終わったぞ。もう防空壕に隠れることはなくなった」と言われ、2学期が始まり学校で戦争未亡人となられた担任の青木先生から「戦争は終わりました。もう怖いことはありません」と聞かされ、空襲の都度逃げ込んだ防空壕へ駆け込まなくてもよいことにホッとしたことを想い出す。しばらくすると出征兵士がぼつぼつ帰って来た。時には、駅まで出迎えに行ったことがあった。
夏休み前に先生に連れられてクラス全員と校外へ出かけた時、突然米軍戦闘機編隊に襲われそうになったことがあり、その時青木先生が、「皆さん!伏せなさい!」と身振り手振りを交え絶叫したので、慌てて地面に腹ばいになった。先頭の戦闘隊長機が急降下した時に、われわれが子どもだと分かったのか、急に機首を上げ機体を急上昇させてそのまま編隊は上空へ飛び去って行った。この怖かった臨場感は今以て身体が覚えている。
その後60年安保闘争、ベトナム反戦運動に参加して、実際に戦時下のベトナムを訪れ、ここでも戦争の恐ろしさを身を以て体験した。更に、翌年には第3次中東戦争の戦地を訪れ、戒厳令下のアンマン市内(ヨルダン)でヨルダン軍兵士に身柄を拘束され、市内を兵士らに囲まれ銃を突き付けられながら連行された。スエズ運河ではエジプト警察に捕捉された。アデンが急遽独立したため、ビザが無効となり入国を拒否されたが、空港で新独立国家のビザを取り直すことによって入国することができた。いま戦闘中のパレスチナでは、イスラエル人から彼らのアラブ人に対する警戒心や長年の反アラブ感情を話してもらい、誤解されがちの彼らの考えも多少知ることができた。こうして戦乱の地において臨場感から実態を知ることにより、今日に至るまで戦争の怖さと嫌悪感が体内に入り込んでいる。
太平洋戦争における犠牲者は、310万人といわれているが、遺族やその親戚を合わせると2千万人近い人々が戦争による被害者と言えるのではないだろうか。厚生労働省主宰の「太平洋戦争戦没者遺骨収集事業」に、20余年に亘り関わることができて、毎年1か月間サイパン島に滞在して実際に焼骨式にも立ち会い、ご遺族や戦友が悲しみに暮れる姿を目の当たりにして、もう戦争だけは絶対に止めなければいけないと強く思った。
ところが、現状はどうだろうか。戦争に懲りて、戦争をなくそうと誓って平和憲法を制定し、第9条には「~戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と誇り高い理想を掲げた。然るに、国は70年前に偽証軍隊である自衛隊を発足させ、その防衛関係費は年々増額され、安保関連3文書により5年間で総額43兆円を防衛力強化に投資するまでになった。防衛機材も拡充し、敵基地攻撃能力も備えるという。すべて憲法違反行為である。中国・台湾対立問題が崩れると、米軍沖縄基地を目標に中国機が沖縄を攻撃することははっきりしている。
これらを考えると、終戦記念日にいくら反戦を誓っても、為政者が軍事力を整備し、そのうえ「日米協定」のアメリカから巧みに欺かれて、憲法9条がまったく無視されていることに恐怖と不安が湧いてくる。戦争が一歩一歩近づいている。今や戦後ではなく、戦前と言える空気になりつつある。この自らが固めた矛盾から抜け出せなくなった岸田首相は、昨日ついに匙を投げ、首相の椅子を放り出すことに決めた。来月の自民党総裁選には出馬しないことを公表した。