昨日ペンシルベニア州でトランプ大統領候補者が、選挙演説中にライフル銃で不意に銃を撃たれ右耳を負傷した。消防士1名が亡くなったこのような暴力事件は、アメリカ民主主義と文化の低レベル化を象徴的に示している。仮にも世界の最高指導者を選出する選挙運動中に、気に入らない候補者を荒っぽく銃で消滅しようとする行動はあまりにも無謀で浅はかである。アメリカは西部開拓時代から精神面においてまったく進歩していない。そもそもバイデン氏とトランプ氏の争いも、高次元のものではなく、相手の欠点をあげつらい、非難、中傷しているだけで、本来の理論闘争とは大分かけ離れている。
こういう低次元の選挙になってしまったのは、アメリカ人の欠陥である幼児性が見られ始めたことにある。アメリカ人は決して民主主義者ではなく、力で物事を解決する性癖がある。本来的に1対1で徹底的に話し合いを詰めるような性格ではなく、いざとなれば銃砲などの暴力を行使して、目的を達しようとの気持ちが強い。一般社会で銃乱射事件が発生し、多数の犠牲者が出ても、事件解決の手段として銃の規制をするという解釈は取らない。建国以来のアメリカ憲法が、市民自らの身を護るため銃を所持することを認めているとの一点張りで、銃所持に拘り、次の銃乱射事件へ発展する。こうして市井社会においても周囲は銃だらけなのである。
そして、2人の候補者お互いの個人的攻撃によって、相手の実績を評価、ほめることなく、あげつらうばかりである。とても紳士的な論戦とは思えない。最近の東京都知事選にしても、戦前予想された小池都知事と、蓮舫前参議院議員の政策批判でも個人的な欠陥まで追求するようなことはなかった。そういう意味では、アメリカ大統領選は、東京都知事選より大分レベルが低いと言わざるを得ない。
この銃撃事件を考えると、仮に選挙が終わり新大統領が選出されても、アメリカの外交政策が心配で気になってならない。元々アメリカは自国の立場、自国優位からしか世界を見ていない。その辺りは、ヨーロッパ諸国もお見通しかも知れないが、いつもアメリカ・ペースに引きずられ不利な対応を迫られる日本としても、今回のトラブルを契機にアメリカとの外交交渉には充分注意しなければいけない。
この事件を受けて今朝バイデン大統領がホワイトハウスで国民に向けて演説した。この演説で、バイデン大統領は「アメリカでは意見の違いは投票によって解決する。銃弾ではない」と他の民主主義国なら当然のことを述べた。だが、実際はそうではなく、むしろ反対で「アメリカは意見の違いを投票ではなく、銃弾によって解決する」というのが通り相場である。大統領自身がそれほど言うなら他国と同様に、銃砲所持の自由を止めれば良いではないか。実際には、銃でうま味を得ている銃砲業者層が政治家に多額の献金をしており、止められないのだ。アメリカ社会を真っ当なものにするには、まず憲法を改正して銃砲を禁止し、更に誰とでも話し合う空気を社会全体に醸成しなければ、同じような殺人事件は決してなくならないだろう。アメリカとは、闇の深い社会なのである。