名古屋市に河村たかし市長というとかく世間を騒がせる変わり者がいる。衆議院議員を5期全うし、2009年に地元名古屋市長に当選したが、直ぐリコール問題で辞任し、その後市長選に再選され、以降5選されて現在も市長を務めている。昨年これも賑やかな話題を振りまく極右志向の強い作家・百田尚樹氏と日本保守党を立ち上げ、共同代表を務めている。同じ県内の大村秀章・愛知県知事とは、犬猿の仲である。蛇足ながら、河村市長は、私よりちょうど10年若いが、偶々同じ誕生日であるのも、悪しき因縁であろうか。
その河村市長が、去る4月30日の記者会見の場であるまじきコメントを述べた。「祖国のために命を捨てるというのは、相当高度な道徳的行為だ」と悪びれずに語った。市長は問題ない発言と認識していると語ったが、市民団体や、自民党名古屋市議団からも「国民の犠牲を美化している」と批判が出ている。
この発言に関して、2人の専門家の批判的意見を紹介したい。ひとりは、日本近現代史専攻の古川隆久・日大教授で、市長の発言は国の命令、判断に従わざるを得なかった戦前の歴史的な経緯を無視していると指摘し、国が「大変だ!」と言ったら無条件で命を投げ出せという意味にすり替わる可能性があると述べている。
もうひとりは、「良心的兵役拒否」を研究している市川ひろみ・京都女子大教授である。兵士を戦争の最前線へ送り出す責任ある上官は彼らが死傷した時、自分はどう行動するのか、遺族にどう接するのか、こういう気持ちが責任を負う立場の人には求められているが、河村市長にはそういう覚悟はあるのだろうか、と疑問を抱いている。
どうも政治家には、自らは安全な場所に避難したうえで、軽い気持ちで発言するケースが多いようだ。だが、彼らの発言の中には、根本的に自分たちは戦争にはタッチしない、つまり口先では軽々に戦争へ加担するような言い方はしつつも、戦争は起こらないと安易に考えていることである。更に、戦争には自らは加わらない、つまり仮に戦争が勃発しても戦争には行かないということを言っているのだ。国防上仮に戦争になったところで、自らは従軍する気はないことを言動で示している。これでは、太平洋戦争で犠牲になった人々や、遺族に対して礼を失していることにならないだろうか。それなら今後戦争に関して言葉を慎めと言ってやりたい。
河村市長は、父親が戦前中国戦線に従軍していたが、市長が生まれたのは父親が復員後の昭和23年であり、戦争に関してはまったく体験はもとより、恐怖感の伴う臨場感もないようだ。
これは何も河村市長だけに限って言っているわけではない。軽々しく戦争賛美や、賛同、軍備充足、更に憲法を改正して新憲法に戦争条項を挿入しようとしている「戦争ごっこ」をしている政治家や、極右分子すべてに言えることである。戦争世代として太平洋戦争中に防空壕内で恐ろしく聞いた爆弾の音、ベトナム戦争と第3次中東戦争を目の前の臨場感から戦争を実感した者として、気軽に戦争について口走る輩に警鐘を鳴らしたい。