今朝の新聞記事には少々驚かされた。今しきりにその効用と同時に弊害も指摘されているAIによる文章作成である。自分の頭で考えるのではなく、AI頼りの文章作成である。これが小中高生の作文にも使われているらしく、昨年度の「青少年読書感想文全国コンクール」には明らかにAIを使用して書かれた作文が複数寄せられたというからショックである。幼児期における作文とは、これから成長する過程で文章作りの基礎を固め、その後文章力を向上させる重要な時期である。それが幼いころから頭脳を使わず、身近にあるAIを手軽に使用するようでは、大人になって文章力が身に付く筈がない。コンクールの主宰者が懸念しているように、これには身近に生徒たちと接触して作文の様子を知っている先生や家族が気が付きそうなものだが、現実には先生にも判断出来ず、見抜くのは難しいと思案投げ首のようだ。今後AI技術が更に進歩したら見抜くのは一層困難になると思う。
昔から幼児の初等教育にとって基本的に大事なことは、「読み、書き、ソロバン」と言われているように、子どもたちの初等教育は、幼いころから彼らが本を読み、自分の頭で考えて文を書くということに尽きると思う。
近年大学生の卒業論文などもチャットGPTなどを使って書く学生が増えたと、大学関係者が頭を痛めているとのニュースを聞いて驚いたことがある。我々の学生時代は、書き上げた論文を教授と1対1で向き合い、その理論的根拠や表現など内容をじっくり議論し、話し合って、教授からアドバイスをいただきながら文章を修正しつつ、まとめたものである。私の卒業論文は、やや硬い「河上肇論」というものだったが、河上の書籍を何冊も読み込み、ある程度河上の考え方を知ったうえで、卒論として書き上げた。決して自慢できるような卒論ではなかったが、私なりの思想、視点と論調から、私でなければ書けない独自なものだったと幾分自負しており、一応自分なりに納得することは出来た。これで学生時代の大きなノルマは何とか果たすことが出来たと思っている。
ところが、AIが一気に小学生レベルにまで進出してきたら、子どもたちは自らの頭で考えて自分で文章を作成することが出来ず、作文することが出来ないまま大人になってしまう。大人になってもまともな手紙すら書けないのではないだろうか。国民的低能化現象にもなりかねず、恐ろしいことでもある。しかも今後ハイレベルのAIが開発されたら、作文も出来ず、組織内でも必要とされなくなり、社会的にも存在感が希薄になる。同時に、社会が格別優秀な人材を必要としなくなるのではないかと憂うる。
その一方で、文章がAIによって作成されたものであるか否かを判定するツールも、まだ道半ばながら開発されつつあるようだ。だが、いずれイタチごっこになるのは明白である。地球上で多額の投資をして人間の頭脳を錆びつかせる技術を競うなんて宇宙の他の衛星から見たら、笑いものにされるのではないだろうか。
確かに時代がこの傾向を受け入れるようになったという背景はあるが、安易に頭を使わない手段を選ぶようになると、いずれ人間社会は崩壊の道を辿るようになるのではないかと心配である。