6016.2024年2月10日(土) 世界的指揮者・小澤征爾氏亡くなる。

 去る6日に世界的指揮者である小澤征爾氏が88歳で亡くなったと昨夕報じられた。日本人なら誰でも知っている有名人で、日本はおろか海外でも「世界のオザワ」としてその名は広く知られている。文化勲章受章者でもある。1981年に旧文部省の教員海外研修団に随行してオーストリアのザルツブルグを訪れた時、現地教育委員会の人たちに小澤について尋ねると皆よく知っていた。ザルツブルグ近郊のカラヤン家の近くを通った時にも、小澤の話が出たくらいである。小澤は音楽への愛情から音楽を広く紹介、普及するための活動にも熱心だった。2002年に日本人指揮者として初めてウィーン・フィルハーモニーのニューイヤー・コンサートを指揮した時は、テレビの前で神妙に耳を傾けていたことを懐かしく想い出す。1973年からほぼ30年間に亘り、ボストン交響楽団の音楽監督を務めていたことでも知られる。中国の瀋陽(旧奉天)で生まれたこともあり、中国への愛情と関心が高く、しばしば中国を訪れては中国の若者たちを指導していた。名前の征爾の謂れもユニークである。歯科医師だった父親が日中戦争時に満州在住の日本人として、日中平和のために「五族協和」を実現しようと奮闘したが、その当時関東軍の参謀長・板垣征四郎と、柳条湖事件や満州事変を起こした陸軍中将・石原莞爾の名前を1字ずついただいて「征爾」と名付けられた。板垣征四郎の子息である正氏は、長らく日本遺族会事務局長を務めておられ、私も太平洋戦争戦没者遺骨収集事業で随分お世話になった。小澤とは関係ないが、何となく因縁を感じる。

 小澤が行動的だったのは、1950年代の終わりにスクーターで貨物船に乗り込み、63日間もかけてフランスへ渡ったのだが、当時日本人の海外渡航は認められていなかった。その行動力は、1966年海外渡航が自由化されベトナム戦争中のベトナムへ初めて出かけた当時の私に比べてずば抜けていると思う。指揮者を目指したのは、ラグビーで指を骨折したためにピアノが弾けなくなり、ピアニストになる夢から志を指揮者へ変えたそうだが、ラグビーをやっていたとは知らなかった。享年88歳だった。心よりご冥福をお祈りしたい。

 さて、海外でイスラエル軍によるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が激しさを増し、国際社会で停戦の意向が強まるにつれ、イスラエルのネタニヤフ首相は意固地になって停戦を拒否している有様で、仲介に入るアメリカもほとほと手を焼いているようだ。

 それと並行して、ウクライナ戦線も一向に戦火が止む気配が見えない。こんな時にウクライナでは、ウクライナ軍トップの司令官解任をゼレンスキー大統領が発表した。素人目にも戦争の最中に軍のトップを交代させるような人事は、戦闘員の戦意を後退させるのではないかと気になる。そこには、大統領と解任されたザルジニー司令官の間に軋轢があったと考えられている。2年前の開戦当初には大統領はザルジニー司令官の指導力を高く評価していた。それが、戦争が長引くにつれて兵士の消耗が激しくなり、兵員不足が深刻化して不人気な新規兵士動員をめぐり、大統領側と軍の責任の押し付けがあったようだ。奮戦する軍への国民からの信頼は高く、最近の調査では大統領への62%の信頼を上回り、ザルジニー前司令官への信頼は88%だった。

 アメリカ議会ではウクライナへの支援に反対が高まった。国内が割れていては、友好国からの支援も遠のいてしまう。こうと決めたら新たに任命された陸軍トップのシルスキー司令官に頑張って実績を上げてもらうしかない。

2024年2月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com