5962.2023年12月18日(月) 2年前に亡くなった親友の思い出

 大相撲の元関脇・寺尾(錣山親方)が昨日心臓の不整脈により死亡した。まだ若く享年60歳だった。私にも心臓不整脈の兆候が見られるとのことで、寺尾の死にちょっと関心を抱いた。私の場合、定期的に慶応病院で心電図検査をして現在のところ一応落ち着いており、医師からも「心配するようなことはないと思う」と言われているので、寺尾のようにはならないと信じている。

 寺尾の死とは直接関係はないが、偶々2年前に亡くなった学生時代の友人からもらった手紙が、思いも寄らず抽斗の奥から見つかった。改めて読み返してみると懐かしい彼との交友が思い出される。亡くなる1年前に書かれたこの手紙の文面には、病気の記述が多い。体調が悪いことは、死の半年前に電話で話した時に聴いていたが、10年前から前立腺ガンに罹っていたことは知らなかった。頻尿のために睡眠不足に陥って食欲不振、倦怠感で恒常的に体調が優れないことに大分悩んでいたことも今になって知った。

 大学経済学部で同じクラスになり、山岳同好会・慶應アルペンクラブの仲間としても4年間に何度も一緒に山行を重ねた。今でもクラブの山仲間とは、付き合っているが、皆80歳を超えて年齢なりにやや衰えが見られるようになった。すでに他界した友人も何人かいる。

 彼とは、卒業してからも付き合いが欠けることはなく、忘れられない思い出がいくつもある。中でも特に印象的なメモリーは、商社勤めだった彼が、インドのボンベイ(現ムンバイ)に駐在していた時、私がケニアからの帰途ボンベイに立ち寄り、彼に市内を案内してもらい、彼の自宅で奥さんともどもおもてなしを受けたことである。ちょうど娘さんが生まれた直後だったが、今ではその娘さんの孫娘が2年前に慶應の法律学科に推薦入学したことが、残り少ない人生の最高のプレゼントだと率直に喜びを手紙に記している。

 もうひとつ忘れられない思い出がある。旧厚生省主宰の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業にほぼ20年に亘り関わったが、それには、その前段のストーリーがあった。加藤隼戦闘隊戦友会の希望により1972年に「加藤隼戦闘隊ビルマ戦跡巡拝慰霊団」を企画、実施した時である。当時のビルマ(現ミヤンマー)には観光に関する情報、知識がなく、そのうえ受け入れ施設が充分整備されておらず、旅行手配上不安があったため、企画の前年に現地へ単身で下見、ツアー企画の交渉に出かけた。訪れる前に友人の父親がベネズエラ、及びアフガニスタン大使を歴任された元外交官だったことを思い出し、当時民間企業にお勤めだったお父上を訪問し、ビルマ旅行の特殊性をお話して、ビルマにおける観光についてお知恵を拝借したいとお願いしたところ、よく存じ上げている鈴木孝・ビルマ駐在特命全権大使に宛てて紹介状を書いていただいた。そのうえでラングーン(現ヤンゴン)の日本大使館に鈴木大使を訪問し、直接大使にお会いして慰霊団企画のご相談をしたところ快く関係筋を紹介して下さった。

 そのせいもあり慰霊団一行は、予定していたすべての慰霊を終了後、唐突にビルマ内務省から迎賓館で盛大なパーティに招待され、慰霊団は現地新聞、ラジオでも取り上げられるほどの大成功を収めた。それが厚生省へ伝えられ遺骨収集団を継続的にお世話することに繋がった。友人父子のお世話により、厚生省から永続的な仕事を請け負うことになったのは、このように友人父子のお陰である。処女出版「現代海外武者修行のすすめ」にこの事実を取り上げたほど嬉しいことだった。その友人のご両親のご葬儀にはそれぞれ参列したが、当の友人の葬儀はコロナ禍のせいで、ご親族だけで行われ、残念ながらお別れの言葉を伝えることは出来ていない。

 学生時代には、登山に熱中したが、とりわけ北アルプスの山々はほとんど登った。ともに関西や箱根旅行をしたり、湘南鵠沼の私の実家にも何度か、遊びに来てくれたこともある。心置きなく話が出来る信頼し合える心からの知友だった。遠からず、また冥界で会えると信じている。

2023年12月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com