子どものころは野球が大好きだった。空き地で草野球もよくやっていたが、好きな巨人軍の試合を観戦するため、終戦直後から後楽園球場へもよく出かけたものである。初めてプロ野球を観戦したのは、終戦の翌年、小学校2年生当時疎開先の房州勝山町(現鋸南町)から父に連れられ、房総西線(現内房線)に乗って両国で乗り換え水道橋駅近くの後楽園へ行った時だった。それからは毎年兄弟だけで安房勝山駅から水道橋まで野球観戦に出かけた。それくらい見るのもプレーするのも野球が好きだった。
今から74年前の昭和24(1949)年の今日は、勝山小学校から幕張小学校5年に転入した2か月後だった。野球好きの仲間数人と後楽園に巨人戦を観戦に行った。友だちの中には前著「八十冒険爺の言いたい放題」の帯文に、推薦文を書いてもらった椎名誠氏の実兄・研二くんもいた。外野スタンドで背番号16のスター・プレイヤー川上選手や、青田選手らに声援を送っていたところ、場内アナウンスで他球場の試合結果を伝えた、その直後に突然どよめきが起きた。そのわけは、遥か遠い甲子園で行われた東急フライヤーズ対太陽ロビンス戦で、東急の大下弘選手が7打席7安打の大記録を打ち立てたと放送されたのだ。その時は、それが大騒ぎされる理由がよく分からず、きっとすごい記録なんだろうぐらいの軽い受け止め方だったが、それが何と今日に至るまで1試合の個人最多安打記録としてプロ野球界に燦然と残る偉大な記録となった。偶々その翌日は、鎌倉へ遠足の日で、大仏の前で撮った集合写真を今も大事に持っている。この2日間に体験したことは今も忘れてはいない。翌シーズンからプロ野球界は、セとパの2つのリーグに分かれ、今日まで引き継がれている。
そして、更にプロ野球界の珍しい記録をその場の臨場感で感じたのは、1957年7月7日七夕の日の同じ後楽園だった。この日は大洋ホエールズ対巨人戦が行われた。受験勉強だけに集中しなければならない浪人生が、予備校・研数学館の授業を終えてから帰宅せずに、その足で近くの後楽園球場へ寄り道して、それまで入ったこともない大洋側ベンチ裏で観戦した。この時ここで何が起きたのか。これも今日まで残っているプロ野球記録のひとつとである。
それは負の大記録と言えるかも知れない。大洋のエースだった権藤正利投手が、55年7月6日対広島カープ戦で敗れて以来、3シーズンに亘り28連敗を重ね、私が観戦したその日7月7日に巨人を相手に3年ぶりに完封勝ちを収め、エースも連敗記録を漸く脱出することが出来たのである。ゲームセットと同時に、私の目の前で権藤投手がチームの選手たちから祝福と歓喜の胴上げをされ、それを敗れた巨人軍の選手たちも祝福して見ていたほどだった。
権藤投手は、53年にプロ野球洋松ロビンスに入団するや、新人で15勝12敗の好成績を上げ、一躍エースにのし上がった。弱小球団に所属しながら、翌年も2桁勝利を上げたが、55年7月以降勝ち星に恵まれず、負け続けて28連敗を重ねた。私はこの日に権藤投手が登板するなどとは思ってもいず、巨人戦を受験勉強の合間に息抜きとして観戦しようぐらいの軽い気持ちだったが、思いがけずプロ野球の歴史に残る試合を目の前で見る幸運に浴したのである。近年プロ野球を観戦することはなくなったが、終戦直後から父に連れられて後楽園を訪れてから、毎年必ず観戦に訪れていた。その中で上記の2試合は、甲子園での高校野球観戦、及び大学在学中に体験した早慶6連戦とともに、私には強く印象に残っている。