5837.2023年8月15日(火) 78回目の終戦記念日を迎える。

 今日78回目の終戦記念日を迎えた。例年通り東京九段の日本武道館では政府主催の全国戦没者追悼式が、天皇、皇后両陛下ご臨席の下に開かれた。生憎台風7号の影響もあり、10府県の遺族が参列を見合わせた。年々参列者の高齢化が進み、出席した遺族の内75%以上が70歳以上だった。戦争を知る世代が年々少なくなっていく。どうやって戦争の恐ろしさと惨めさを後世へ伝えていくことが出来るのか、大きな関心事であり、これからも引き継がれるべき課題である。

 私自身振り返って、1945年3月に父の転勤と疎開を兼ねて千葉県勝山町(現鋸南町)へ引っ越し、4月に大量の牛乳缶を馬車で運んでいた父の会社の人に勝山国民学校へ連れて行ってもらい初等科へ入学した。晴れて国民学校1年生になった。両親ともに息子の入学式になぞ出席している余裕がなかった。まだ友だちは誰もいない。父は千葉市内へ毎日片道2時間半もかけて列車で通っていたが、最初のころは母も近所には親しい人は誰もおらず、それでも勤労奉仕には強制的に狩り出されていた。近くの館山市内に旧日本軍の施設があるせいで、わが田舎町まで米軍機の空襲が激しくなり、毎晩のように敵機を探知しようと鋸山頂上の軍の探照灯が闇夜を照らしていたのを2階の窓からじっと見ていたのをよく覚えている。昼夜を問わず空襲警報のサイレンが聞こえると同時に、母や兄弟と近くの岩山の横穴式防空壕へ逃げ込んだ。一方学校ではこんな際どいこともあった。お母さん先生に連れられて校外のお花畑へ同級生と揃って出かける途中で、米戦闘機編隊が低空飛行して接近し銃撃直前になって急遽機首を上空へ向け飛び去って行ったが、先頭の機長の目に我々のような幼い子どもたちが逃げ惑う姿が映り、哀れと思って見逃してくれたのではないかと後になって考えたことがある。

 その後社会人になって旅行業に関わることになってからも戦争に関する業務に携わることが多かった。1970年当時ビルマ(現ミヤンマー)は国の特殊な事情によりほとんど日本から戦没者慰霊団を受け入れていなかったが、ビルマ戦友会から慰霊団計画の相談を受け、直に交渉するより方法はないと思い、単身ビルマへ飛んだ。慣れないながらも現地でビルマ航空とぶっつけ本番で交渉して陸軍航空隊として初めて「加藤隼戦闘隊ビルマ慰霊団」を計画、実行した。思いがけずビルマ政府から晩餐会に招待され、それが新聞やラジオで広く報道され大いなる反響があった。それが転機となり、以後毎年ビルマをはじめとする東南アジアへ慰霊団を計画した。更にそれがきっかけとなり、当時の厚生省からも太平洋戦争戦没者遺骨収集事業を仰せつかり、十数年に亘り毎年中部太平洋諸島への遺骨収集団で、1か月間も「玉砕の島」サイパン島を中心に滞在することになった。

 偶々一昨日の朝日新聞朝刊に遺骨収集に関する記事が載っていた。それによると「海外戦没者240万人、収集された遺骨128万柱、過去に身元判明1232人」だそうである。加えて「進まぬ国の遺骨収集 遺族『それだけ高齢化進む』」とある。これに付け加えるなら、日本人の犠牲者は310万人、東京大空襲死者8万3千人、広島・長崎原爆犠牲者死没者名簿に51万人、等々戦争がもたらした惨禍は限りがない。

 私たちが毎年お世話して順調に続けられていた遺骨収集が、今では当時より遺骨収集団の規模は小さくなり、収骨数は遥かに減ったようだ。これでは、戦争の整理はいつまで経っても片が付かない。何とか以前のように遺骨収集に厚生労働省も本腰を入れて欲しいものである。

 「戦争は怖い!」「戦争は2度と冒してはならない!」とは誰しも思うことである。日本国憲法でも戦争の放棄は第9条に明確に記載されている。だが、実際には現状は、日本政府が憲法違反を冒しながら、戦争への道をひた走りなのだ。

 昨年末には「安保3文書」を閣議決定し、自衛隊に敵基地攻撃能力をもたせるように今後5年間に巨額の防衛費43兆円を決定した。再び戦火に巻き込まれるのは耐えられないので、これは好戦的な国会議員には嫌みに聞こえるかも知れないが、この先戦争ムードが高まり、そのうえ体調が最悪になった時には、今生からお別れしたいと思っている。

2023年8月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com