5805.2023年7月13日(木) 戦時体験がなく、臨場感で戦争を知らない政治家

 僭越であるが、事あるごとに臨場感の重要さをアピールし、著著でも訴えるし、講演でも本当の臨場感というものの大切さをアピールしている。

 実は、昨日の朝日「天声人語」に臨場感についてこんなことが書かれていた。少々長いが引用する。

 「『私は、海のかなたで、今戦争があるということを信じることが出来ない――』。明治、大正、昭和を生きた作家の小川未明は小説『戦争』にそう書いた。まさに第1次世界大戦の激しきさなかである。多数の戦死者を伝える新聞を見て、『作り話ぢゃないのかしらん』▼なぜかといえば、『みなが大騒ぎしてゐない』からだった。欧州の戦争への関心はどうしてこんなに低いのか。作家は『新聞の報道が事実であるなら、誰でもかうしてぢっとしてはゐられない筈である』とひとりごちた」
 これこそ戦争の臨場感が伝わっていないことを表している。童話作家だった小川未明によれば、第1次世界大戦を国民が、恐ろしいとか、怖い、ぞっとするというような気持ちを当時の新聞報道から感じ取ることが出来なかったと知った。臨場感とは、現場に臨んで現場に溢れている熱っぽい空気を身体全体で感じ取ることである。従って現場で取材した記者が、臨場感を感じてそれを記事にして読者がその記事を読んでも、実感として現場の空気は必ずしも伝わるものではない。

 実際、私自身の戦時体験からしても、小学生(当時は国民学校)当時に、空襲警報で近くの防空壕に慌てて避難したり、先生に引率されて校外のお花畑に行く途中で米戦闘機編隊に低空飛行で銃撃されそうになった時は、先生が「みんな!伏せなさい!」との叫び声に地面に伏した時の恐怖感は明らかに臨場感に溢れていた。ところが、6年生になった時朝鮮戦争が勃発し、連日新聞、ラジオで報道され、担任教師から地図を使いながら解説されても怖いという気はしなかった。戦場の厳しい臨場感が伴っていなかったからである。

 その後ベトナム戦争の現場に出かけ、いくつか怖い体験をした。それこそ生命を失いかねない危機一髪の場面では、戦争の臨場感があった。第3次中東戦争直後の戒厳令下でもヨルダン軍兵士にライフル銃を突き付けられ身柄を拘束された時は、一瞬この世の終わりかなとも思ったほど怖かった。いずれもそこには、臨場感がたっぷりあった。

 人伝えの話とか、新聞などを通して知る「事件」は、冷静に受け止めることが出来る。ところが、生の現場で実際に目にした「事件」は、興奮と狼狽で落ち着いて実態を受け止めることは中々難しいが、臨場感を感じ取ることは出来る。臨場感が伴わなければ、筋道を通した話に中々説得力が伴わないものだ。それは今の岸田首相をはじめとする保守政治家も同じで、戦時体験がなく、アメリカの言いなりに従っているだけで戦争の臨場感を知らない。それが彼らを戦争へ向かわせるのだ。

 来る22日(土)に吉祥寺市内で、自分自身が体験した臨場感のエキスと、それにより9.11テロを予知したことを話す心積もりで、今パワーポイント画像を作成中である。「臨場感」について、気持ちを籠めて少しでも臨場感という言葉の意味を知って貰いたいと願っている。

2023年7月13日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com