半世紀以上も昔何度か沖縄返還闘争デモに参加したことがある。1972年5月15日、念願だった沖縄の日本本土復帰が実現した。1951年サンフランシスコ平和条約が協定され、日本は戦後漸く被占領国から独立国となったが、沖縄はその後もアメリカの施政権下にあり、日本とは切り離されていた。沖縄県民は国籍不詳の無国籍状態だった。51年前の明日漸く日本へ復帰することになり、沖縄県民と日本国民の長年の希望が実現した。沖縄の状況は、道路は日本と同じように車は右側から左側通行に変更され、通貨も米$から円に替わり生活面は日本と変わらなくなり、沖縄県としても日本の三権が認められ、1つの自治体としての行動、機能が容認されるようになった。
問題は、引き続き駐留しているアメリカ軍の沖縄県民へ与える影響が相変わらず強く残っていることであり、県民の生活は大きな影響を受けていた。本土から観光客も訪れるようになり、沖縄経済も少しずつ成長し県民の生活も豊かになったが、駐留米軍による航空機騒音や環境問題をはじめ、米軍兵士らの犯罪などで県民の生活が脅かされることが目立ってきた。そのうえ、今も生きている日米地位協定のような不平等条約を押し付けられ、沖縄県として米軍及び米軍兵士に従属させられるような事態に追い込まれていた。
沖縄県における米軍専用施設の総面積は、県面積の約8%、沖縄本島では約15%を占めている。全国の米軍専用施設面積の内、沖縄県のそれが70%余も集中しているほど、今以て沖縄は米軍施政下にあると言える。
そんな折近年中国へ対抗するためと言い、自衛隊が沖縄諸島に進出し急速にその存在感を高めている。沖縄を含む南西諸島は、長い間防衛面での空白地帯とされてきた。72年の復帰とともに自衛隊は沖縄へ駐屯地を設置して80年代には自衛隊員数は6千人台だったが、2020年代になって8,200人になった。自衛隊基地面積も増え、昨年3月時点で復帰時の4.7倍にまで増えた。
いかに中国への対抗手段であるにせよ、沖縄県の歴史や県民感情を蔑ろにして自衛隊の増強を図るのは問題であろう。太平洋戦争中に沖縄では県民の4人にひとりが犠牲になっている。数値的な問題ばかりでなく、沖縄には戦時中県民が恐怖に追い込まれた屈辱的なメモリーがいくつもある。終戦直前の米軍上陸、島民への集団自決強制、日本軍による島民虐殺などもあり、約10万人がその犠牲となった。中でも終戦の前年に疎開する子どもたちを含む約1,700人を乗せた対馬丸が那覇港から長崎へ向かう途上で米潜水艦の攻撃を受けて沈没し、約1,500人が犠牲になった生々しい悲劇がある。
今では、県民の間に少しは自衛隊を受け入れる気持ちもあるようだ。2016年に与那国島、19年に宮古島、そして今年3月には石垣島へミサイル運用部隊などの駐屯地が開設された。だが、決して「自衛隊⇒軍人⇒戦争」のイメージが消えたわけではない。配備が進む島々では複雑な思いの人がかなりいる。「自衛隊は我々を守るためだけのものか。いつの間にかアメリカと中国の対立の最前線に立たされている気がする」とある沖縄県人が語っていた。とにかく防衛予算の大幅増額により、軍事力を強大化させることに拘泥する岸田政権は、もっと国民の声、とりわけ沖縄県民の声に耳を傾ける必要がある。