昨日防衛省がミヤンマー国軍から幹部や幹部候補生の留学生を受け入れることを来年度から停止すると発表した。しかし、ミヤンマーとの交流は過去の歴史的背景から考えてそう簡単に断ち切れるものではないと思いつつ、残念ながら現状ではこの決断を受け入れざるを得ないと思っている。
昨年2月にミヤンマー国軍が、アウンサンスーチー国家顧問が支配していた民主的な政権を軍事クーデターで倒し、ミンアウンフライン国軍最高司令官が国の全権を奪った。スーチー氏ら民主派政権幹部を拘束し、民主派議員や知識層を追放し、国内に戒厳令を敷いて、市民と軍事政権との対立を煽り多くの犠牲者を生んだ。国際世論は反民主的で暴力的な国軍にスーチー氏らの身柄を解放するよう要求しているが、国軍はスーチー氏への強い国民の支持を警戒して応じないばかりか、次から次へとスーチー氏に対して国家反逆罪などの罪を被せて、身柄を拘束したまま重刑処分を課している。
日本をはじめ国際世論の非難が厳しい中で、ミヤンマーは外国から多くの制裁を課せられている。防衛省がミヤンマーから毎年留学生を受け入れていることに関しても、これまでも国際人権団体などから批判が出ていた。ここへきて、7月に国軍は民主派活動家ら4人を処刑したり、昨日は空軍機がサガイン地区の小学校を空爆して11人の小学生を死亡させた残虐行為に、遂に防衛省もこのまま留学生を受け入れることに構っていられなくなったのだ。
1971年初めて当時のビルマを訪れて以来、公私ともにミヤンマーを度々訪問し、ミヤンマーの人びとと個人的に深く交流を重ね、他の国との付き合いとはまったく異なる、彼らの優しさに触れ親しい間柄となった。戦没者慰霊団で何度も訪緬する度にビルマ軍高官や、政治家にもお世話になった。彼らの中には戦前日本の航空士官学校へ留学していた軍人が多くいた。スーチー氏の父親で「ビルマ独立の父」として国内で尊敬されているアウンサン将軍も、日本の陸軍士官学校へ留学した時期があった。72年に加藤隼戦闘隊ビルマ慰霊団には、片足を失いながら「隻脚のエース」として戦闘に加わり、後に航空士官学校講師として多くのビルマ人留学生を教えていた檜与平氏が同行された。その折元教え子のウチッキン情報局長がこれを伝え聞き、唐突に迎賓館で豪華なレセプションを催して歓迎してくれた。現地のメディアにも大きく取り上げられ、当時の鈴木孝ビルマ駐在大使を驚かせたことが懐かしく思い出される。
戦後自衛隊が発足して間もなく日本は外国人留学生を受け入れるようになった。現在ミヤンマーをはじめ、17か国からの留学生を受け入れているが、現在のミヤンマー政府の非民主的軍事国家情勢から、遂に来年度以降受け入れを停止することになった。
現在のミヤンマー軍事政権は、ロシア、中国を除いてほとんどの国々から非難、制裁を課せられているほど独裁的で非民主的であり、現状では防衛省の判断は当然と受け取られるのもやむを得ない。しかし、本来ミヤンマーの人びとは、他の国民とは一味異なる人間的な思いやりや優しさ、親切心を有しており、一部の軍人の行動によって全体として厳しい目で見られることは忍び難い。昔ながらの日本人とビルマ人との温かいつながりが、当面これで途絶えてしまうのかと思うと堪らなく寂しい気がしている。