5484.2022年8月26日(金) 旧文部省教員海外視察団の懐かしい思い出

 大分前のことになるが、学生時代の友人に旧文部省主宰の教員海外教育事情視察団に、どのくらい関わっていたのかと唐突に聞かれたことがある。つい先日ちょっとした暇つぶしに添乗員として随行した全視察団のレポート集を含めてすべての資料を調べてみた。

 この旧文部省教員海外派遣プロジェクトは、かつて田中角栄首相が在任中に始めた文部科学行政の一環であり、毎年全国の公立小中高教員に海外視察の機会を与えることによって、教員に国際的視野を身に着けて欲しいとの願いから実行に移されたものである

 幸いこのプロジェクトに長年携わることが出来、21回も全国の先生方とともに海外の教育施設を訪れ見学する機会を与えてもらった。1976年に初めて長期団でスウェーデンとアメリカへ出かけてから1995年短期団山梨県の先生方とご一緒するまで20年間に実に533名の先生方と海外の教育施設で行動を共にする貴重な機会を得ることが出来た。最初のアメリカ、マサチューセッツ州のニューベッドフォードは、ジョン万次郎が漂流中助けられ、生活したホイットフィールド船長の自宅があるところである。ここにはジョン万次郎記念館もあり、私の妻がジョン万次郎の遠戚であることを館長に話したところ、次回は是非夫妻で訪れて欲しいと仰っていただいた。残念ながら、最早半世紀近くも経つのに、その夢はまだ実現していない。

 ところで、長期団とは1か月の旅程で全国の先生から構成される視察団であり、短期団は都道府県単位で16日間の研修旅行である。普通の海外旅行に比較すれば、やや長い旅程でもある。私自身長期視察団9団と、また短期団では茨城5団、山梨2団、以下東京、埼玉、群馬、福井、兵庫7都県12団とともに旅をして、20年間に延べ462日間海外研修していたことになる。

 現在コロナ禍もあり、当初の計画通りこのプロジェクトが実施されているかどうかは定かではないが、家庭が貧しく高等教育を受けられなかった田中首相ならではの思いが籠められたプロジェクトで、現場の先生とともにこのプロジェクトに参画出来たことは幸せな体験だった。最初のころは国際的にまだ東西対立の時代であったが幸い社会主義国家と呼ばれていた国々を訪れることが出来て、資本主義国と対極にある国々、特に社会主義教育のありのままの姿を自分の目で見学することが出来たことは幸運だったと思う。

 特に、第3世界と呼ばれたチトー大統領のユーゴスラビア、ソ連の厳しい監視と制約に抑圧されそうなチェコスロバキア、東西分裂下の東西両ドイツ、独裁者チャウシェスク大統領支配下のルーマニア、同じ社会主義国ブルガリアなどを覗き見ることが出来たことは、後学のためにも貴重な体験となった。西ドイツとは大きな経済格差が見られた東ドイツの学校訪問では、常に秘密警察シュタージ係官に監視され、思いつめたような環境の下で、日本側の質問に答える東ドイツの教師の怯えるような態度が強く印象に残っている。最も多く訪れた国はアメリカで、9回訪れ、学校訪問に訪れた都市18都市に及んだ。

 この教育視察団のひとつで思いがけないことがあった。それはベオグラードで友人山崎洋さんに巡り合えたことである。1984年ユーゴスラビアのリエカを視察の際、現地通訳を務めてくれたのが、ゾルゲ事件でゾルゲの仲間ブランコ・ド・ブケリッチ氏の遺児・山崎さんだった。彼は大学内キャンパスで私の顔を見たことがあるような気がすると言って話し合っている内に、奇しくも大学、専攻学部、卒業年度まで同じだということが分った。まったく予想もしなかった出会いだった。こんな奇跡的なこともあるものかとお互いに驚いた次第である。

 大学卒業後、彼はすぐユーゴへ渡航し爾来現在ユーゴ解体後のセルビア・ベオグラードに居住し、現地の情報を広く発信している。今でも付き合いは続き、毎年のように会っていた。コロナ禍なければ今年も彼が日本へ一時帰国して会っている筈だった。今では最も信頼出来る親しい友人のひとりである彼との付き合いによって、世界が大きく広がったし、国際社会を見る立ち位置も少し変わった。彼から教えられることも多く、今やかけがえのない友人となった。初めての出会いから早や38年、この付き合いは終生続けて行けると思っている。これもこのプロジェクトがもたらしてくれた思わぬサプライズ・プレゼントである。

 旅行中原則として食事も自分で手配することもひとつの教育と考えられ、旅行当初は先生もかなり当惑していたが、慣れるに従いスムーズにご自分で食事を取れるようになった。

 学校訪問を通して思いがけず知ったことは、初等教育では一般的に先生は子どもたちに教えることが好きであるというより、むしろ先生は子どもたちが可愛くて大好きだということを登校時、下校時の様子を見て知らされた。これこそが初等教育に携わる教師の原点であると思う。また、アメリカでは教師はほとんど喫煙しないことで、日本側の先生がタバコを喫えなくて落ち着かなかったことも印象に残っている。

 帰国後は、各団ともに毎年のように同窓会を開いていたが、年々それも少なくなり、今ではすべて解散してしまった。参加された先生も年々彼岸へ逝かれて今では数少なくなり、先生文通だけの交流になってしまった。

 添乗員には、文部省からヨーロッパでは現地通訳をアテンドしても良いが、英語圏では渉外係の英語教員と添乗員が通訳を分担して務めることが義務づけられ、普段は英語を教えている先生も相当悩まれていた。添乗員としても通訳は必須だったので、業務を果たしていたが、初めの内はかなり悪戦苦闘した。学校訪問時の通訳は、次第に慣れてきてさほど苦労することもなくなったが、ある都市で急遽ビール工場の見学が決まり、ビールの製造工程には専門用語が多く、その時の通訳業務には随分苦労したことがあった

 いずれにしろ、この教育視察団に同行出来たことは、自分自身の視野を大きく広げてくれ、世界情勢にも広く目を開かせてくれた。現地の新聞にも度々取り上げられ、テレビにも何度か顔を出したことがある。とにかく、旅行業者としてはこのような格調高いツアーに関わることが出来て、普通では訪れることがないような国々をタイムリーに訪れ、話題の都市に滞在するハッピーな経験をさせてもらった。正に旅行業者冥利に尽きると言えると思う。こういう上等な業務に携わることが出来たサラリーマン人生を心から幸運だと思い、有難く思っている。

2022年8月26日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com