5480.2022年8月22日(月) 仙台育英高、東北勢甲子園初優勝

 今日夏の全国高校野球決勝戦が行われた。かつては甲子園は憧れだった。今日も決勝戦をずっと見続けた。中学3年時には開会式から3日間連日甲子園に通いつめた。2人の子どもが小学生の頃は夏休みになると彼らを甲子園に連れて行くのが恒例となった。高校3年時の昭和31年夏の大会で平安高校が優勝した時、優勝パレードでグランドを行進していたのは、平安中学校の同級生たちだった。母校湘南高校も今から遠い昔の73年前に初出場・初優勝を果たした。どれもこれも懐かしい想い出である。

 戦前の全国中等学校野球大会(現全国高校野球大会)では、臨戦体制の影響を受け、開戦時の昭和16年から終戦の昭和20年まで大会は中止された。それが今日では、年々ハード面はもとよりソフト面でも大会実施面、及び選手の健康面で理想に近い配慮がされるようになった。今では、全体の日程を連戦のないように組み、準々決勝と準決勝戦、準決勝と決勝戦の中1日を休息日にしている。1人の投手が1週間以内に500球以上投げてはいけないルールまである。他にもかつては、ベンチ入りの選手を9人から14人に増やしたが、今では18人で戦う態勢になった。このために最後まで1人の投手が投げ切る完投は大分少なくなった。

 それが、戦時下ではかなり制約があった。「選手」ではなく「選士」と呼ぶことや、「打者は投手の球をよけてはならない」なんてナンセンスで危険なルールもあった。途中交代禁止なんて乱暴なルールもあった。これでは1人でも負傷者が出た場合には8人で試合に臨まなければならなかった。我々がラグビーをやっていた高校時代は、試合途中での選手交代は認められなかったものだ。1人ケガをすれば、14人で戦わなければならなかった。あまりにも選手の健康を気遣わない前近代的なルールだったと言えよう。今では選手交代を作戦上有効に活用したり、交替が当たり前になった。

 さて、今日の決勝戦であるが、宮城県代表の仙台育英高が、山口県代表の下関国際高を8-1で破り、東北勢として初めて優勝を遂げた。越すに越されぬ「白河の関を越えた」優勝と言われている。過去に東北代表校は決勝戦に11度進出したが、いずれも惜敗して栄冠を勝ち取ることが出来なかった。全国3,547校の頂点を極めた仙台育英高の栄誉を心より祝福したい。これまで高校球界では弱小エリアと考えられていた東北地方からベスト4に2校も進出するとは思いも寄らないことだった。それほど東北勢は力をつけてきたと言える。過疎地域の高校が強くなるよう、つい人情的に応援したくなるものだ。若干気がかりなのは、それらの強豪私立校選手の中に、地元の選手が果たして何人いるかということである。強豪校ほど全国から優秀選手をスカウトして地元出身選手がいなくなる傾向がある。

 1984年夏の大会で茨城県立取手二高が、PL学園を破って優勝した時、偶々茨城県教育庁で教員海外派遣団の事前研修会を行っていた県職員、先生方の取手二高への熱の入れ方がすごかった。優勝が決まるや、直ちに県庁にプラカードと横断幕が掲げられた。その時ある先生からこれが私立校だったらこれほど盛り上がらないと伺った。地元の選手、特に公立校出身選手の活躍が期待されていたのだ。果たして優勝した仙台育英高校選手の中には、どのくらい地元出身の選手がいるだろうか。優勝に水を差す気持ちは毛頭ないが、それでもやはり気にはなる。

2022年8月22日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com