5359.2022年4月23日(土) 幻と消えた第二山手線

 昨晩NHK・BS3で放映された「パラレルニッポン、幻の‘第二山手線’プロジェクト」で、大正期に現在の山手線の外側に洲崎から大井町まで第二山手線の建設計画があったことがドキュメントで紹介された。その中心人物となったのが、小田急創立者の利光鶴松翁であると知り、興味深く鑑賞した。

 その計画は着々と進められたが、残念ながらあの未曽有の関東大震災で東京の街は完膚なきまでに破壊され、計画は白紙に戻ってしまった。しかし、その後プロジェクトは国がかりで再検討され、鶴松翁はプロジェクトのリーダーとして膨大な資金集めのために株主を公募しながら計画を進めつつあった。だが、昭和に入ると日中戦争が始まり、海外ではNYウオール街で株価が暴落する世界恐慌が発生して、社会的にも経済的にも計画は挫折してしまった。

 昨日の番組の中で、仮に第二山手線が建設されていたら社会的に今日どんな影響を与えただろうかと番組出演者にアイディアを想像させていた。好い加減なプロジェクトでなく、実際自然災害や世界的社会環境の変化さえなければ、第二山手線は現実となったであろう。そのひとつに株式公募の案内状があり、もう一つの具体的な証拠として、京王電鉄井之頭線明大前駅に現在存在する上下線に並行して上下2車線のスペースが空いたまま残されている。これは第二山手線計画が実施段階へ一歩踏み込んだ建設の証しである。

 利光鶴松翁は小田急の創立者として、今も小田急社内では社史にその名を残し、多くの社員から崇められている存在である。私は鶴松翁の孫で、大学ゼミの先輩である利光國夫さんに小田急入社に際してもお世話になった。今も利光ご夫妻には我々夫婦も親しく交誼をいただいている。昨日もほんの僅かではあったが、弁護士のご子息剛さんとインタビューに応えておられた。今日いただいたメールによると、NHKのインタビューは1時間ほどだったらしいから、放映ではかなり短縮されてしまったことになる。

 それにしてもほんの噂程度だったが、第二山手線らしい計画があったことは微かに承知していた。計画倒れに終わったとは言え、その青写真があまりにも精巧に計画されていたのには驚いた次第である。全線の駅名を入れた立派なカラー地図にはこれが幻の計画かと絶句するほどである。確かに関東大震災とか、日中戦争、世界経済の凋落に災いされてしまったが、ここまできちんと計画を立てるのは、よほど国家としても相当力を入れていたのだろう。

 それでも幻に終わってしまったが、このような膨大な計画が過去にあって、その総帥として計画をリードしたのが小田急人だったことは、同じ小田急人として誇らしい気持ちである。

 さて、今日4月23日は、次男の誕生日であり、先ほどお祝いのメールを送ったところだ。実は、今日はイギリスの文豪ウイリアム・シェークスピアの誕生日でもある。それだけではなく、厄日でもある。彼は、1564年4月23日に生まれ、1616年4月23日に亡くなった。大分以前になるが、シェークスピアの故郷ストラットフォード・アポン・エイヴォンにある記念館を訪問した時、記念館の係員に誕生日と亡くなった日を得意になって喋ったところ、えらく驚き感心されてしまった。受験勉強の空暗記で覚えた生まれた年号は「ヒトゴロシ」、亡くなったのは「イロイロ」の語呂合わせで、誕生日と厄日は「4月23日」と覚えていた受験勉強の成果?を披露しただけだったが、本場で評価されることになった。受験勉強の空暗記も必ずしも時間の無駄ではないということだろうか。

2022年4月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com