5317.2022年3月12日(土) 48年前小野田寛郎さん戦地より帰国

 このところ史上エポックメーキングな日々が続くが、1974年の今日戦後フィリピン・ルバング島の山中に身を潜め、ただひとり生き抜いた「最後の日本兵」小野田寛郎元陸軍予備少尉が29年ぶりに帰国した。その小野田氏は8年前に亡くなられたが、旧帝国軍人魂のようなものを心の中に秘めていた。偶々帰国された1974年の今日、私は「飛行第64戦隊」、通称加藤隼戦闘隊と同じく、隼戦闘隊の飛行第50戦隊ビルマ戦跡慰霊団」に付き添い、ビルマへ出発した。小野田さんがマニラから帰国した日航機と我々がバンコックへ向かうキャセイ・パシフィック航空機がほぼ同じ時間帯だったために、羽田空港には多くのマスコミが取材に訪れ、あるスポーツ紙には「戦地へ行く人、帰る人」という見出しで、戦地へ出かける旧軍人を記事として取り上げてくれた。その後グアムから横井庄一さんが帰国され、ひと時陸軍帰還兵の話題がメディアを賑わせたものである

 私はこの当時旧厚生省援護局が主宰する、太平洋戦争戦没者遺骨収集事業に携わり、毎年のようにサイパン島を主に中部太平洋諸島を訪れていた関係で、担当に足繫く通い、遺骨収集団が派遣される際には、収集団団長である厚生省課長と行動を共にしていた。そんなご縁で、団長から小野田さんや横田さんのリアルな話もよく伺い、2人の正反対な性格をよく伺ったものだ。2人については興味深い対照的なエピソードも多かったので、前著「南太平洋の剛腕投手」を上梓の際、小野田さんと横井さんについて丸ごと1章の原稿にまとめて、世に開示する予定でいた。ところが、出版社から全体的に文章が長すぎるので、部分的にカッとして全般的に短縮するようにとの要望があり、あれこれやってみたが、うまく削除出来ずに、この章を思い切って全てカッとしてしまった。結果的に小野田さんと横井さんの話を拙著の中で紹介することは出来なくなってしまった。

 そんな経緯もあり、何かとお2人には気持ちが入込んでしまう。今以て小野田さんについて強く印象に残っている話は、小野田さんには私利私欲がまったくなく、性格的にもクリーンな方だったということである。それは、多くの日本人から戦地でのご苦労に対して多くの寄付金が寄せられたことに対して、自分はいただくわけにはいかないし、いただく筋合いでもないと強く拒まれ、いただいたお金をすべて寄付してしまった。このことで周囲が今後の生活を考えて少しは寄進者の気持ちを受け入れて貯金してはどうかとアドバイスしたが、一切取り合おうとしなかった潔癖さである。日本を去りブラジルで、子どもたちに自然と親しむことを教える自然塾を主宰するような純粋で高邁な考え方の人だった。数は少ないだろうが、こういう崇高な軍人さんも旧日本軍の中にはおられたのだと感心したものである。

 さて、ガラケイの携帯電話が使用出来なくなって、今後どうすべきがを考えていたが、PCを使用すれば、敢えて携帯を所持する必要性を感じなかったので、止めるつもりでいた。ところが、妻や息子たちが連絡用に携帯用電話機として所有して欲しいと言うので、今日妻と次男と一緒にヤマダデンキへ行き「らくらくスマホ」と言う初歩のスマホを購入した。これから80の手習いでスマホ初級を使用するが、いつマスターすることが出来るだろうか、あまり自信はない。

2022年3月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com