4949.2020年11月29日(日) 「貧乏物語」を著した河上肇を想う。

 いま元外務省主任分析官だった作家佐藤優の新書版「貧乏物語 現代語訳」を読み始めたところである。「貧乏物語」と言えば、言わずと知れた戦前のマルクス経済学者・河上肇の名著である。冒頭佐藤の解説の中に河上の経歴を述べた後に「収監中に河上は自らの共産党活動を敗北と統括し、今後共産主義運動とはまったく関係を断つとの転向声明を公表した」と述べている。河上が1933年に思想犯として特高に検挙され、その後豊多摩、市ヶ谷、小菅刑務所に服役中に心境に変化が見られたことを記している。だが、この「転向」声明は間違っている。河上は「転向」しなかった。「没落宣言」をしてその時点から姿を消すように沈黙すると決めたのである。

 「転向」とはこれまで辿って来た道の方向を転換することであり、思想的には、転向というよりむしろ逆向というか、反対思想に取り込まれることだ。事実「大辞林」を紐解けば、「思想的政治的立場・信念を変えること。特に、社会主義者・共産主義者が弾圧によってその立場を放棄し、他の立場に転換すること」と書かれている。河上は立場を放棄したのでもなく、他の立場に転換したのでもない。ただ、厳しい弾圧に疲れ果てそのまま自らその場所で自身を埋没しようとしたのである。実際河上はこの「転向」と見られることをひどく嫌った。正式な共産党員としては、共産主義に刃を向けるような「転向」は最も嫌がった筈である。公安からは「転向」を迫られ精神的に逃げ場を失った河上は、そのどちらにも属さず、身を潜める「没落」という逃げ道に逃げ込んだのだ。従って河上は「転向」声明ではなく、「没落宣言」をしたのだ。河上はこの「没落宣言」という言葉に強く拘り、自らの社会主義思想家として共産主義を信奉したことに背を向けることはしなかった。佐藤の解釈には、終身共産主義者として生きた今は亡き河上肇がそれを知ったら、さぞや嘆くことだろう。

 それにしても佐藤は河上書を読めばすぐ分かるようなことを、何故間違った書き方をしたのだろうか。10年ほど前上野精養軒でセミナーがあり、鈴木宗男氏とともに出席された佐藤と話したことがあり、その時浦和高の出身で私の母校・湘南高と部活の定期戦をやっていたので、湘南に行ったことがあると聞き親しみを感じたことがある。

 そもそも私が河上肇に入れ込んだのは、この「貧乏物語」と「自叙伝」5巻にひどく感銘を受けたからである。大学の教養課程を終え専門課程で専攻する当時の社会思想史ゼミの飯田鼎助教授と面接した折に、読書傾向を尋ねられ、そのことをお話したら、ではゼミで河上肇を研究してみてはどうかとアドバイスいただいたことが、一層河上肇にはまるようになった原因である。卒業論文も恥ずかしながら拙いながらも何とか「河上肇論」を書き上げることが出来た。

 河上が研究・行動過程で「没落宣言」を行ったのは、「貧乏物語」を上梓したずっと後のことである。確か晩年の作品「自叙伝」の中で読んだような気がしている。

 佐藤の著書を読了後に、改めて河上肇と向き合い、「貧乏物語」を皮切りに彼の作品を少し読んでみたいと思っている。書斎には岩波書店発行の「河上肇全集」28巻をはじめとして、「貧乏物語」、「第二貧乏物語」、「遠くでかすかに鐘が鳴る(上)(下)」、現代日本思想大系「河上肇」、他数冊の河上書がある。とても読み切れるものではないが、気軽に少しずつ時間をかけて改めて挑戦してみたいと思っている。

 今振り返って学生時代にしっかりとして研究テーマを見つけられ、それに前向きに取り組むことができて、恩師からも評価されたことはかけ替えのない財産だと思っている。

 河上肇が共産党員になってしみじみ詠んだ言葉に、

 「辿り着き 振り返り見れば山河を 越えては越えて 来つるものかな」

 という大好きな言葉がある。苦労に苦労を重ねて漸く辿り着き、過去を振り返ってみると一際感慨を覚えたという気持ちを率直に表したものだと思う。

 そういう意味でも河上肇の生き方に恥じない人生を送る、例え遥かに及ばないことであるにせよ今では残り少なくなった余生に委ねられた責任であるとも思っている。

2020年11月29日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com