4843.2020年8月15日(土) 75年目の終戦記念日を迎える。

 いうまでもなく今日は終戦記念日である。昭和天皇が「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び~」の象徴的な終戦のメッセージを読み上げられ日本が降伏してから75年が経った。暑い日だった。今日も75年前に劣らず暑い1日となった。

 日本武道館で行われた全国戦没者追悼式には久しぶりに天皇・皇后両陛下が出席され、お言葉を述べられたが、今年は新型コロナウィルスの影響もあり、規模が大幅に縮小され昨年は遺族を含む6,200人が参列したが、今日は20府県が参列の参加を見送ったせいもあり、僅かその1割にも満たなかった。今心配されているのは、年々遺族が少なくなりいずれは遺族会も先細りとなり、解散して戦没者を弔う行事をどのように引き継ぐかということである。遺族会や親族だけに戦争遺族の世話を押し付けるようなことではなく、国が戦没者の慰霊をしっかり行う手順と制度、組織をきちんと整備することが大切だと思う。

 75年前はまだ国民学校初等科1年生だったので、その時の感慨はほとんどない。しかし、今当時を思い出してみると気のせいか両親や近所のオジサン、オバサンたちの顔にもホッとした安堵の気持ちが表れていたような気がする。

 ところが、昨晩のテレビでちょっと気になったことがあった。終戦前日の14日午後11時過ぎに埼玉県熊谷市が米軍機の空襲を受け、200名以上の犠牲者が生まれたという話である。その頃にはすでに終戦は天皇陛下御臨席のその日の御前会議で決定されていて、米軍も当然承知していた筈である。敢えて弱り切っていた日本、及び日本人を痛めつけるような止めの一撃を加えたのは、何故であろうか。解説によると占領時に日本へ有無を言わせぬ占領政策をスムーズに行うためと知り、アメリカ人の間には武士の情けとか、手心を加えるという気持ちがまったくないのだろうかと考えてしまう。尤も広島、長崎に原爆を投下してあれほどの惨禍を与えていながら、当時のカナダ首相は相手がヨーロッパ人でなく日本人で良かったと平然と日記に記していたそうだから、日本人は彼らの当時の感覚では劣等民族ぐらいにしか考えられていなかったのではないか。それは今日でもトランプ政権の対応ややり方にも見られる。圧力をかけて押しまくるやりかただ。沖縄米駐留軍の日米地位協定や、米軍の駐留経費を巡る「おもいやり予算」などに見られる厚かましいお仕着せである。この辺りは、農耕民族である日本人と異なり、アメリカ人には押して押して押しまくり骨の髄までしゃぶり尽くす狩猟民族の残虐な血が流れているからだろう。

 さて、今秋上梓予定の拙著の表紙デザインについて、先日はるかぜ書房の鈴木氏へ友人近藤總氏の話をしたところ、何とか近藤氏に描いてもらえないだろうかということからお願いしたところ、今日快諾してもらった。近藤氏がプレイボーイ誌や文春誌の表紙を描いたり、通産大臣賞を2度も受賞したデザイン界のエキスパートであることは、最近まで知らなかったが、とにかく素晴らしいデザインをたくさん描いている。拙著の表紙に彼のような名デザイナーが筆を揮ってくれるとは名誉なことであり、椎名誠氏の推薦文と相まって錦上花を添えることになる。ただ、少し時間的に厳しくなってきたので、その点がちょっと気になっている。

 ともかく素晴らしい1冊になるよう私なりの努力を傾けたいと思っている。

2020年8月15日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com