4771.2020年6月4日(木) 天安門事件から31年

 今日6月4日は、中国にとって歴史上に汚点を残した1日である。1989年北京の天安門広場で民主化を求めていたデモ隊に対して軍隊が武力を行使して多数の死傷者を出した。

 そのきっかけは、改革派の胡耀邦元総書記の死だった。中国共産党中央委員会総書記だった胡耀邦は、「百花斉放」として「言論の自由」を推進し、国民から政治改革への期待が高まった。これら一連の民主化に対して保守派から中国共産党一党独裁を揺るがすものであるとして胡耀邦総書記に対する批判が生まれ、長老グループから非難の矢面に立たされた。結局胡総書記は87年辞任を強要され失脚した。その2年後の89年4月胡耀邦は他界したが、その2か月足らずの間に無念やるかたなく辞めさせられた改革派胡耀邦・総書記を追悼するかの如く自然発生的に国家を揺るがせる大事件が勃発した。それが天安門事件である。それ以来今日まで中国には民主化を抑圧する動きはあれども、民主化を創生しようとの動きはまったく見られない。

 中国にはそれ以前の1966年から10年間文化大革命により国内が上へ下への大騒ぎがあった。歴史は繰り返されているのだ。文革に際して中国政府は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」ときれいごとを言っていたが、所詮民主化の空気はなく共産党内の権力闘争だった。58年毛沢東・国家主席の「大躍進運動」が失敗し、責任を取った毛沢東が国家主席を退いた。替わった劉少奇・国家主席と鄧小平・共産党総書記が権力を握った。これを快く思わなかった毛沢東が復権を試み、軍部の支援を得て劉少奇らを資本主義の道を歩む実権派として打倒を呼び掛けた。そして4人組(江青、王洪文、張春橋、姚文元)を追放し毛沢東は権力を取り戻した。毛沢東が亡くなった78年以降権力の座に就いた鄧小平は、改革開放を提唱し、その後の中国経済発展の礎を築いた。この鄧小平時代に中国は社会主義から離反した。発展著しい中国ではあるが、思想、モラル面で今も混乱の最中にある。

 しかし、天安門事件以降31年経った今日でも、最近香港で国家安全法案の実施を押し付けるなど中国にはリベラルな民主主義政治の空気はまったく感じられない。故胡耀邦は泉下で現代中国をどう見ているだろうか。

 さて、今日6月4日と言えば、かつては毎年靖国神社に参拝していた。ビルマへの戦跡巡拝団を他の旅行社に先駆けて取り扱い、お蔭で陸軍航空隊の巡拝団をほとんど取り扱うことになり、それが旧厚生省の太平洋戦争戦没者遺骨収集事業の指定業者として認められることになり、その後約20年間に亘り、同事業に携わることが出来た。

 実は「加藤隼戦闘隊」と呼ばれていた「飛行第64戦隊」戦友会が「六四会」と呼称され、毎年今日6月4日に全国に住んでいる戦友たちが靖国神社に集合し、「六四会戦友会」を開いた。戦友が揃って参拝した後九段会館で懇親会を開いて、宿泊もしていた。「六四会」の旅行、宿泊関係を手配したことから今日6月4日は靖国神社と九段会館とは切っても切れない1日となった。ビルマを主とする戦地への巡拝団は、1972年以後毎年続けられ、それは15年間に亘った。

 この日が来るとつい昔の「六四会」を想い出す。今では懐かしい皆さんは鬼籍に入られてしまった。思い出せば切りがないほどであるが、拙宅近くの三軒茶屋の地主だった怖い顔をしたお得意様が、献身的に支援してくれた。その方が他界されて18年になるが、いつも三軒茶屋を通るたびにあの怖い顔をしていたが優しかった思い出と姿が蘇ってくる。

2020年6月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com