4593.2019年12月9日(月) 年賀状作りを教えてくれた恩師

 年賀状を書く時節となった。昨日から年賀状のあて名書きを始めている。妻の分も含めて今年も年賀ハガキ600枚を購入したが、あて名別に何種類かの賀状文面を作成したのでこれから毎日少しずつそのあて名を書いていくことになる。今年も寂しいことだが、賀状辞退の訃報を何通かいただいた。その数実に26通である。中にはメールによる辞退が2件あった。こればかりは失礼ながらどうにも腑に落ちない。いかに時代性とは申せ、肉親の死を伝え、同時に賀状辞退をメールで行うということについては、私にはすんなりとは納得出来ない。冠婚葬祭にはある程度襟を正し、思いを込めて伝えるべき慣例というものがある筈である。メールで連絡したから事済めりとは行かないと思う。万事簡略化されたのでは、故人の気持ちが充分伝わらないのではないかと気になる。2日間で200枚近く書いたが、これから毎日少しずつ目標枚数に近づくよう書いていきたいと思う。

 年賀状と言えば、どうしても思い出すのは千葉・幕張小学校の担任だった湯浅和先生である。先生は、通常の教室の授業の他に課外授業を熱心に指導してくれた。校外の田畑へ連れ出してくれては俳句を教えてくれたり、図工にも先生独自の教え方で作品を作った。特に版画には彫刻刀の削り方から板へ向かう時の気持ちなどを懇切に教えていただいた。版画による年賀状の作成もこの時始まった。

 湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル賞を受賞され、「フジヤマのとびうお」古橋選手が日米対抗水上大会で世界記録を出し、母校湘南高校が甲子園で初出場・初優勝を果たした昭和24(1949)年に、勝山小(現鋸南小)から幕張小へ転校した。湯浅先生のクラスに入り、教えてもらった版画作りで昭和25年元旦に版画の年賀状をスタートさせ、それは大学卒業の年まで絶えることなく続いた。残念ながら当時作成した年賀状の版画は手元になくなってしまったが、思い出とその感覚はいつまでも頭の中と掌に残っている。今ではパソコンで手際好く作成するようになったが、あのころの年賀状作りが今も懐かしく思えてくる。

 再来週その幕張小のクラス会があるが、当時のクラスメートとの年賀状のやり取りも今では版画ではなく、パソコンで作成したものだ。恩師とは卒業後もずっと交流を続けて、歌舞伎を2人で観に行ったこともあったが、相撲なども身体で教えてくれた湯浅先生も逝かれて早や35年になる。

 つい年賀状と言えば版画を教えてくれた湯浅先生をセンチメンタルに想い出してしまう。

2019年12月9日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com