元鎌倉市長の竹内謙さんが今年4月に亡くなった。遅まきながら今日その竹内さんを偲ぶ会がプレスセンターのレストラン「アラスカ」で行われた。彼にまつわる思い出は尽きない。最初の出会いは、私が高校ラグビー部のキャプテンになった昭和31年4月、彼が新入部員として入部してきた時である。竹内さんの他にその時彼の中学時代の仲間がどっと入部してきた。それまであまり強くなかったラグビー部が少しずつ力をつけていき、彼が卒業した翌々年ラグビー部は初めて関東大会へ出場することになった。
その後深い付き合いもないまま1993年突然鎌倉市長選に出るので、選挙対策本部事務局長を引き受けて欲しいと要請されたが、時間的にとてもその余裕がなく、幾分時間的に余裕のあるラグビー部の先輩に事務局長役をお願いして側面的にバックアップすることに回った。彼は見事選挙に勝ち2期市長を務めた。
その後市長を辞めてからもしばしば会う機会はあったが、格別仕事をともにすることはなかった。それが2年前「鎌倉学会」を立ち上げるので、発起人のひとりになって欲しいと電話があった。試行錯誤を重ねた末に要職はダメだが、側面的に協力するということで落ち着き、何度か会って話をした経緯がある。鎌倉の世界遺産登録に協力しましょうと話し合ったこともあった。
それが今年4月に突然亡くなったと連絡をもらい愕然とした。彼は彼が願う人生を思い切り歩むことができただろうか。市長を辞めてから時代を先取りしてインターネット新聞社を起ち立げ、契約者を1千万人に延ばして読売新聞購読者を追い抜いて見せると大見得を切っていたこともあったが、残念ながら会社は営業休止状態のままである。早大探検部で一緒だった直木賞作家の西木正明さんが、彼のことだから必ず再建しますよと言っていたが、その機会も潰えてしまった。享年73歳だったからまだ思い残すことは沢山あったのではないだろうか。
今日は彼の同期生や、ラグビー部仲間とも彼を想いながら懐かしい話を交わしたが、思い出は尽きない。行動力のあった彼にはやって欲しいことはまだまだいっぱいあった。
会場の正面壁面に彼の旅を中心とする何枚かの写真が大きく映し出されていたが、その中に3人の男性が並んだ写真があった。彼と同級生のJR貨物の伊藤直彦氏、そして2010年ノーベル化学賞受賞者根岸英一博士と納まった写真である。14年3月私が撮って彼に送ってあげた写真だ。
発起人を始め、多くの著名人のスピーチがあったが、その中で元朝日新聞社長中江利忠氏が話された1993年に彼が市長選に出るかどうか逡巡していた頃の話が最も印象に残っている。確かにその市長選前の会合で彼が市長選に出るというので、新橋で高校ラグビ-部の仲間と対策を考えていた時に、中江社長から竹内氏に電話が入り、もし市長選に出るなら朝日は辞めなければいけないと言われたと聞いて「彼もいよいよ腹を括らなければならない」と決意を固めたようである。その時中江社長は、‘Think globally,act locally’と言って彼の背中を押してくれたという。
今年彼からもらった年賀状には、「寒き世に頼りは一樹百穫の子」と書かれ、「近藤先輩の精力的な発信に敬服しています」と添え書きしてあった。彼とはまだ話し足りない気がしている。せめて拙著「南太平洋の剛腕投手」の中に、彼について簡単に紹介したことで私の気持ちを少しでも察して欲しいと思っている。心より畏友竹内謙さんのご冥福をお祈りしている。