昨日ブログに「読売文学賞」を受賞された高校1年生時のクラスメート・富士川義之氏について書き込んだところ、近所に住んでいる同じ高校同級生の呉忠士さんから、また異なる縁とも思える情報を教えてもらった。呉さんの御尊父は、古代ギリシャ文学の権威、呉茂一・東大元教授であるが、呉家と富士川家は祖父同士が同郷の医師の誼で、また父親同士が同じ文学者として深いお付き合いがあるという話にまたびっくりである。しかし、呉さんは富士川氏が高校の同級生だったとはまったく知らなかったようで、流石に驚いていた。こんなこともあるのかなぁと不思議な思いでいる。
さて、昨年4月に亡くなった竹内謙・元鎌倉市長を偲ぶ会でいただいた追悼集「士魂-竹内謙の探検人生」をさらっと読んだ。130頁程度の書で文字も大きく読みやすい。ご子息が編者になって、生前死期を悟った父親から追悼集の要領と掲載する文章を教えてもらい、まとめたもので簡便で、中々良くできていると思う。
これを読んでみて改めて竹内さんの人生観と探検人生がよく分かる。高校のラグビー部の2年後輩で私がキャプテンになった3年時に、新入部員として10名ばかりの仲間とともにラグビー部に入って来た。大体面構えが良かった。卒業後はほとんど付き合いはなかったが、鎌倉市長選に出る時になって、何とか選挙事務局長を引き受けて欲しいと要請された。しかし、まだ営業責任者として時間的にとても引き受けられるような余裕がなく、時間的に余裕のありそうな先輩を推薦し、押しつけてしまったことがある。選挙には度々応援に出かけたが、幸い市民から支持され立候補した2度とも当選した。朝日記者として実績を積んでいただけに、朝日からも惜しまれたが、市長になって古都鎌倉を環境破壊から守りたいとの気持ちが強く、市長当選後も精一杯職務をこなし環境保全や、市役所内記者クラブ廃止などの実績を挙げていた。
3選の声もあったが、潮時と見たのか、他に市長という制約の多い窮屈さから枠を外して思い切ってやってみたいと思ったのか、インターネット新聞社を立上げ、却ってのびのびとやっていたようだった。このころ所属する「知的生産の技術研究会」の講演会にも頼んで来てもらったことがある。いずれ購読部数で読売を抜いてみせると張り切っていたが、残念ながらリーマン・ショック後に広告主が次第に減り、ついに会社を閉めることになった。さぞ身を切られるような辛い思いだったであろうと心中が察せられる。
数年前「鎌倉市民学の会」(略称鎌倉学会)を立ち上げるが、発起人のひとりになって欲しいと依頼があった。鎌倉市民ではないし、とてもアカデミックな役割はできないとお断りしたが、時折私の元気さと発信力を生かして手伝って欲しいと頼まれ、一会員として手が空いた時にお手伝いすることで了解してもらった。
追悼集「士魂」には、この鎌倉学会に対する強い思い込みが迸っている。とにかく情熱のある人間である。ゾルゲ事件で主任弁護士を務めて著名だった祖父、父ともに著名な弁護士だっただけに、彼も正義感が強く、正論を押し通す真面目で真正直な男だった。
3年前に倒れてその2年後に大腸がんのために亡くなったのだが、いつも熱い思いを伝えてきた。昨年もらった最後の年賀状には「先輩の強い発信力に敬服しています。ぜひ見習いたい」とお世辞ともつかぬ、本人の気持ちを書いてくれた。
早稲田大学では探検部で活躍し、最近もあちこち奥さんやご家族と海外旅行を楽しんでいたようだ。今から考えるともう少し彼とざっくばらんにいろいろ話しておけばよかったと思っている。