4118.2018年8月22日(水) 「プラハの春」から半世紀を想う。

 今「プラハの春」について拙稿を認めている。一昨日8月20日(日本時間21日)は、あの「プラハの春」をぶち壊したワルシャワ軍のプラハ侵攻からちょうど半世紀になる。あの事件によって密かにプラハにあるカレル大学への留学を考えていた遠大な計画がご破算になり、何日間も悩み苦しんだ。一旦上司に提出した辞表を大学の恩師のアドバイスもあり取り下げさせてもらい、会社へ謝罪して引き続き勤めさせてもらうという一世一代の屈辱を味わうことになってしまった。あの時は、自分にとっても人生の転換点となった。今では甘酸っぽく懐かしい気もするが、あの頃はしばらく悩み苦しんだ。あれがその後のわが人生にとって大きな転機になったと思う。以降旅行業者として4度プラハを訪れているが、やはり運命というか、因縁と言おうか、プラハ滞在では滅多に巡り合えない事件が身に降りかかったのも天の啓示であろうか。。

 初めて訪れた1980年1月、旧文部省主宰教員海外教育視察団では、KLMオランダ航空のエンジン・トラブルにより出発便が1日半遅れたことによって最初に予定されたプラハ郊外の学校訪問がキャンセルされたことである。これには先生も文部省担当者もがっかりされていた。その代わり幸運にもプラハの古色蒼然たる市街で小雪に見舞われ、「マッチ売りの少女」の情景をイメージさせられた記憶が今でも心の片隅から消えない。

 2度目の1988年8月に訪れた時は、偶々「プラハの春」20周年記念日に当たり、ワルシャワ軍装甲車が侵入してきたヴァーツラフ広場近くに宿泊していたホテルまで聞こえてくる大騒音に興奮して外出しようとしたところ、危険を感じたホテル側に制止され外出出来ず、地に鳴り響くような騒音のデモに直接触れる機会を逸したことを残念に思っていた。そして翌89年新生チェコが誕生した。

 3度目は1993年9月にやはり文部省教員海外視察福井県団と共に、プラハから120㎞の小さな町・ハビリクブブロトに3泊して地元の小中学校を訪れた。この時だけはこれという事件には遭遇しなかった。

 4度目は1996年6月だった。列車でプラハからウィーンへ向かっている車中で同行者のひとりが旅券を紛失したことが分かり、他の同行者はそのままウィーンへ向かい、旅券紛失者と添乗員の私がプラハへ戻ったことである。その後の事務処理と対応で日本大使館、警察署、航空会社を駆けずり回り苦闘したことが、思い出されてくる。今思えば、プラハについては50年間あれこれ思い出すことが山ほどある。

 「選択」8月号にも関連記事が掲載されていたが、ソ連に対する反抗や、自由と平等を求めた民主化運動が伝えられるが、その陰に隠れがちであるが、「プラハの春」には数世紀に亘りチェコ人としての伝統、文化を守ってきたチェコ人の誇りが、ソ連なんかに負けない、ソ連なんかの指導下に生きていることなんか出来ないとの対ソ優越感があった。そんなことまでは寡聞にして知らなかった。

 あれから半世紀とは、まさに「光陰流水の如し」である。あの当時はまだ20代だった私も間もなく傘寿80歳になる。

2018年8月22日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : mr-kondoh.com