「しかしこの身内にしか見せない陽気さがなかなか世間に伝わりませんので、良くも悪くもその印象が喜久雄を取っつきにくい男に見せているのですが、さすがに同じ釜の飯を食う役者や関係者には、日々の付き合いのなかでその陽気さが伝わりますので、そんな世間の評判に対しまして首を傾げる者も多かったのですが、俊介が亡くなったあとくらいからでございましょうか、昔、徳次がいたころのような笑い声が、喜久雄の楽屋から聞こえてくることもなくなりまして、その代わり、俊介亡きあとの歌舞伎界をなんとか盛り返そうと、人一倍奮闘する喜久雄は少し空回り気味で、ふと気がつけば、以前のように後輩役者たちが気軽に喜久雄の楽屋へ顔を見せ、
『三代目の小父さん、飲みに連れてってくださいよ』
などと甘えられることもなくなっていたのでございます。」
唐突だが、これは今朝の朝日新聞連載小説、吉田修一著「玉宝(こくほう)」の後半1/3ほどの文章である。何と息が切れる長い文章だろうか。とても一気には読めない。関西歌舞伎の主役の気持ちを描写した一部であるが、いくら吉田氏が名を知られている作家であるにせよ、文章としてはこの一文節は少々長すぎるのではないだろうか。
文章の長さについて作文に関する著作からだと思うが、大分前に文章は長くならないように、一文節は精々150文字まで、長くても最大限200文字以内に収めるべきだと書いてあったように記憶している。爾来肝に銘じているつもりだが、この吉田氏の一文はあまりにも長いのではないかと思う。約350文字もある。何年か前に吉田氏は「悪人」という作品を日経夕刊に連載したことがあったが、ストーリーが分かり難く面白くもなく途中で読むのを止めてしまったことがある。それが単行本として発行され結構売れたと知り、そんなものかと思ったことがある。
この作品は読み続けているが、それほど興味深いわけではない。ただ、歌舞伎界を舞台にした登場人物の設営が面白く何とか読んでいるが、これも間もなく最終回を迎えるようだ。
以前加賀乙彦氏からタイトルは短い方が良いと直接アドバイス頂いたことがあるが、文章だって同じことだと思う。それにしても冒頭の文章は何度読んでも息が切れる。
さて、昨日八が岳の阿弥陀岳を登攀中の関西の男女7人グループが全員滑落し、3人が死亡し4人が重軽傷を負った。全員がザイルで身体を結びお互いに安全を確保していた筈であるが、先頭を歩いていた人が滑落したのに伴い、全員が墜落したようだ。1人滑落しても他の仲間が助けるのがザイルを使用する目的だが、あっという間に引きずられて300m墜落したようだ。
八が岳には、学生時代から阿弥陀岳、赤岳、権現岳を始めとして何度も登っているが、3月は北八が岳の高見石でぶらぶらした程度だ。日本アルプスとは異なり独立峰のような存在だが、上りやすい山で、ある程度登山に親しんだ人はほとんど挑戦したのではないだろうか。ちょっと残念な遭難事故である。