今朝羽田孜元首相が82歳で亡くなられたと聞いて少々驚いている。羽田元首相は私が知る数少ない政治家のうちのおひとりだった。衆議院議員を14期務められ、2012年に政界を引退された。農水相、蔵相、外相の他に、党務として新生党党首、太陽党党首、民主党幹事長などを歴任した。自民党では竹下派の七奉行のひとりとして長らく政界で活躍された。リクルート事件のような政局の大事な場面で華々しく活躍された割には、意外にも人間的にとても温厚で優しい一面を示された。保守政治が激動した荒波の中で、存在感があり遂に総理大臣の座を射止めたが、僅か64日間の戦後2番目の短命内閣に終わった。
羽田さんは1958年成城大学を卒業し、小田急バス㈱に入社され、観光課に奉職されていた。この点については今日の朝日夕刊にも紹介されていた。衆議院議員・父武嗣郎(偶然にも私の仲人の旧制新潟高校時代の親友だった)の死後、国会議員を継ぐべく68年同社を退職された。そんなご縁もあり、親会社の小田急電鉄社長が長い間羽田氏の後援会長を務めていた。私は63年小田急電鉄㈱入社以来駅勤務、経理部在職以降はずっと旅行部門に勤務して、羽田さんと接点はあった筈であるが、羽田さんの在職中はお互い仕事を共にすることはなかった。しかし、羽田さんが国会議員になられてから羽田さんの海外渡航のお手伝いをし、幾度かお会いし、お話ししたこともある。また他議員の海外渡航をご紹介していただいたこともある。
羽田さんが「老衰」で亡くなられたと報じられて驚いたが、私より僅か3歳年長であり、私もいつの間にかそんな「老衰」の危険地帯に入っているのかと思うと心穏やかではいられない。
羽田孜元総理大臣のご冥福を心よりお祈りしている
さて、昨日行われた茨城県知事選の結果が公表された。結局7選を目指した橋本昌前知事の「知事を続けたい」願望は、茨城県民によって弾かれてしまった。だからと言って「越すに越されぬ大井川」の大井川氏が勝ったのは、大井川和彦新知事の評価が決して高かったわけではないと思う。水戸っぽの大井川氏は、これまで茨城県政に関わっていたことはなく、通産省役人を経て複数のIT企業に携わっていた。自民党は、元自民党員でありながら党の思い通りにならない橋本前知事の多選と自民党批判に手を焼いた末に、新人大井川氏を担ぎ出し自民党本部から大勢の幹部を選挙応援に送り込んだ。元々茨城県は保守地盤が根強く民進党から対立候補者も擁立されなかったこともあり、何とか新人が同じ保守を支持基盤とする橋本前知事に勝った。だからと言って、このところ都議選以来負け続けの自民党が勝ったと言えるものではない。
かつて茨城県の教員海外派遣業務を何度か請負って、茨城県教職員に附いて4度も欧米を訪れ、茨城県について関心を抱いていたこともあり、橋本前知事の業務について断片的ながら気にしていた。これまで橋本前知事が間々物議を醸すような事案もあった。例えば、動物殺処分全国でワーストになった問題や県庁知事室職員に自殺者が多い問題、福島原発放射能漏れで児童の検査は必要ないと語ったこと、等々が大きな話題になった。
今回の選挙では、県内に東海村原発を抱える立地上原発再稼働について、今後どういう対応を示されるか注目していたところ、これまでの主張を変えて保守派としては意外にも原発再稼働に反対する立場を表明した。ところが、この原発再稼働反対が投票日の半月前という遅い発言だったことから、私はこれこそ本心ではなく、選挙対策上苦し紛れに捻り出した苦渋の選択肢ではないかと考えている。こういうご都合主義的な選択が、有権者、特に原発反対者には嫌われたのではないかと考えている。
それにしてもこれほど多選批判が出るとは、橋本前知事にとって想定外だったのか、或いはそれでも本人は知事の長年の実績によってクリア出来るとでも考えたのだろうか。